panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

2月1日に書くのを忘れてしまう


Highlights of Polifemo - Rubén Dubrovsky, Bach Consort Wien

 

  1日には書くというのをよく忘れるようになった。当方もその日から一週間怒涛の日々だったので、そうなってしまうのだが、いずれにしても肉体的な力の減退を感じる。月曜日からまたリモート作業になったのに、いぜん、疲れは抜けない。

  でこのボノンチーノのcdを買うことにした。人材的にはこのYouTubeのほうがいいだろうと思う。ファジョーリが歌っているし。ともあれ名曲が連続しているこのポリフェモであるが、他にcdは出ていないような気がする。ようやくオペラ全曲盤が出たのがむしろ僥倖だという感じ。ルーベン・ドゥブロフスキーというこの指揮者もうまいかもしれない。

  ということで1日の使命を今果たしているところである。

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  1944年の同じウィーンでの演奏がcdとなっていることを発見した。ドイツ語歌唱と銘打たれている。時代であるなあ。

とうとうコロナ倒産が身近にやってきた

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  いまだ一度も出勤できないまま、1月が終わろうとしているが、今日は散髪に行ってきた。これもまた、勇気ある行動のように思える。歯科医にも顔を出したいのだが、歯科医の方は勇気が出ない。つまり、勇気は、我輩において、臨機応変である。

  しかし問題はその先にある。床屋のその先にある、車検をいつも頼んでいるガソリンスタンドが取り壊されているのを発見したのである。コロナ倒産なのではないか。うーん。めっきり通行量が減っている昨今、危機だったのだなあ。気に入った青年が働いていたのだが。

  ショックの大きさを言い表す言葉もない。不立文字という言葉が浮かんでくるが、諸行無常という言葉も口をついて出そうになる。喜びも悲しみも幾年月という映画タイトルも関連して、思い出される。というかこの映画はよく思い出す。関連のいかんにかかわらず、清張の砂の器という、きわめつけの哀しみが胸を去来する。

  果てしなく続くかのごときコロナの呪い。とうとうひしひしと我が身世にふるながめせしまに、という和歌の断片も、無理なくわが記憶中枢を刺激するが、いずれにしても唯我独尊な我が身にもズドーンとやってきた倒産連鎖。悲しい限りである。

さすがにまいるのである

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  ピエン越えてパオンな日々である。ほとんどスーパー以外には出ることがないので、骨ももろくなっているかもしれない。脳はもうろくしているだろう。

  コロナによる自粛には飽き飽きしたが、不要不急の外出はやはり倫理的な歯止めがかかってできないのであるが、何か反不要不急な大義がないかと思っていたら、2月は最初からいろいろ出勤が続くのであった。よかった。

  でもそうなると、やはり仕事は嫌で、仕事するより謹慎してたほうがいいようにも感じてしまい、引き裂かれる自己。ふふふ。教養がたまにほとばしり出るが、出方が衰えた間欠泉のようになったコロナ一年の帰結を思って泣けてくる。

  かくして自粛する喜びも悲しみも幾年月。途絶えない感染者数を最近は手帳に記入することにして、競馬の予想屋のようなことをしているのだが、何になるのだろうか。

1月半ばの2021年謹賀新年

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  例によって忘れていたのである。しかも元旦には函館にいたので、書ける状態にはない。

  帰京して1週間になるのだが、ずっと自粛しているので(リモート会議2回)、体がなまっているというより、腹が御嶽山のように噴火状態である。まことにまずい。でも不要不急の外出は避けるようにと、首相がたどたどしく言うわけだし、コロナにかかるとまずい時期だし(この時期は、そもそも、自宅待機のまま天国に行く公算も高い)、いやになっちゃうわけで、、、、。

  という次第で2021年は始まったが、人と会うことがないことはストレスフリーではあるが、その分、夢みたいな、白昼夢のようなものがおそってきて、昔の人のことを思い出して苦い思い出にひたることもある。昨日のリモート会議の冒頭でその人が転倒して頭をぶつけ元旦に亡くなったことを知ると、どこにいても人との現実的想像的なつながりから逃れらないのだろうかと、まことに暗鬱な気分になるのであった。はやく完全に人様のことは忘れるのが一番であるが、実はいつも忘れてはいるのである。でも不可解にもふいに浮かんだわけで、そうなると、もう完全にボケるしか社会の網の目から逃れるすべはないのかと、ますます不快の念は増すのであった。

  念頭にあたって、これが私のあいさつです。、、、といえば、ガースーだと笑われるなあ。

覚悟をもって明日帰省することにした

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  明日北海道に帰ることにし、ブログを思い出した。

  もう冬至をすぎて、明るさを回復しつつある12月の末だが、北海道は厳寒である。対して今日など首都圏は春のようである。このギャップが苦しい。ぎゃふん。

  それにしても完全にブログのことは忘れてた。もう思い出さないのかもしれない。それほどにコロナは決定的な分岐点となるかもしれない。当方にとってではなく、世界にとって。

  14世紀の黒死病はヨーロッパを近代へ押しやる1つの大きな要因だったし、モツ君誕生の一年前だったと思うがポルトガルの大震災は啓蒙主義の時代において思想家たちに深甚な影響を与えた。自然の脅威というのは文系の世界史では触れられるだけで、真剣に考察されたことはあまりなかった。でも、かつてはそれを契機にたとえばベルギー・オランダ、とくにベルギーは豊かな地帯だったので、大して死者が出ず、ヨーロッパでもっとも人口稠密な一帯になっていき、さまざまな産業や交易がさらに発展していくことになる。世界最初の近代経済誕生の国になるわけである。その興隆は、いまでいえばコロナの母、中国になるのか。うーん、気の滅入る連想だった、、、。

  というわけで、この暖気の首都圏を捨てて、明日、実家にもどる我輩ではあるが、帰宅すればしたで、道産子の大泉洋的柔軟性をもって、寒気に対処するのである。前人未踏、末席不在、観客閑却など、あらゆる艱難辛苦を乗り越えて、なんとか帰京したいものである。

12月に入ったが、張り合いはない。つっぱりもない。そもそも相撲をとってるわけじゃない。

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  あっという間に最後の月だ。1日だということを思い出し、書きだしたが、もうほぼ一か月書いていない。やる気が出ないというより、書くことはないということなのである。フレイル(虚脱状態)というわけではないが、年齢的に自粛しなければいつ何時あの世に行ってしまう可能性もあるので、一人自粛自室自失といった状態なのである。

  11月1日にあげたケフェレックの写真の後年版が今日の写真。この間、ルガーノ音楽祭(もう終わってしまった)の長年の演奏を集めたアルゲリッチの22枚組も買ったし、その他の、昔はまったく手の出なかった高価な演奏?(高貴な演奏ではない)も集成されてきわめて安価になり、ホイホイ買っているのだが、だからといって生活の充実感はあまりない。

  人生には「張り合い」が必要だとつくづく感じるが、それは競争ではない。この間、60年前のドイツの経済学者エドゥアルト・ハイマンの本を初めてとして経済の本を読んでいるが、ハイマンがいうには無限獲得衝動としての経済主義体制の下にいる我々近代人は競争から逃れられないが、生存経済の水準をとうに超えたのだから、この経済主義体制も終わるべきだということなのに、ふふ、確実にそれから60年はたっているのである。いかんともしがたい。

  張り合いついでに、一回だけ帰省の帰りにゴートゥー・トラベルを利用して、盛岡で新幹線を降り、友人と待ち合わせて紅葉の花巻温泉に一泊してきた。実に高揚する紅葉であったが、いやに町が綺麗なのにふと疑問を持った瞬間、小沢一郎のポスターを車中から発見して、有力政治家がいれば、こうなるのかと理解できた。

  ということで、いったんはコロナの危機に面する可能性もあったが(岩手はわれわれが滞在していた時点でクラスターが発覚した)、無事に乗り越え、張り合いはないが、自己忖度しつつ、暮らしているのである。

  年末は一人でまた帰省することになるが、北海道は大変な状態なのに、札幌からきっと大量の帰省者が函館に来ているだろう。空恐ろしいことこの上なく、、、。という我輩自身が東京圏からの帰省だというのが、情けない。

 

トランポラン(ちゃらんぽらんのアメリカ版)

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 今日が世界の帝国アメリカの皇帝を選ぶ日である。一見民主的な選挙ではあるが、アメリカは独立当時から、人々一般の明確な意思が表明しにくいような複雑な仕組みを導入していた。つまり少数エリートの自由主義は堅持するが、民主主義はこれを極力、少なくするという方式だが、これは当時のイギリス政体の小型版である。エリート間の自由は謳歌させるが、大量のノンエリートの平等な政治参加が直接、政体に影響しないように計らい、何重ものバリアを張っているわけである。素晴らしいですなあ、アメリカ親方の深慮。・・・たしかに自由の国アメリカとはいうが、平等の国アメリカという言い方は聞いたことがない。

  トランプに賭けたので、軽犯罪法に引っかからない程度の額ではあるが、儲けたい。バイデンが勝てば、その程度の額でも失うことになるのは、ちょっち耐え難い。

  ということで、どうなるか。結局、アメリカ国内でいえば、もう州の違いではなく、どの州でも都会はバイデン(仕方なく。もっと若い候補なら圧倒的に勝っていたろうに)、田舎はトランプであって、都会対地方の全般的な対立になっているように見える。

  従来のアメリカ史の文脈に直せば、国際主義対孤立主義ということになるのかもしれない。それが、南部や北部、西部といった地理的分布と関係なく、単純に、都会的な人間と地方的人間の対立となっているようなのだが。

  トランプには中国的専制国家の襲来に備える意味で勝ってほしいのだが、でも勝てば最悪のトレードをして中国を利することになるかもしれないところにトランプのうかがい知れなさがある。うーん。でもバイデンが皇帝でありうるのだろうか。・・・でも日本の首相といい線かもしれない。うーむ。

  我輩の生まれた頃の映画銀座二十四帖。監督は現在のむつ市生まれの川島雄三。ALSで亡くなった人だが、森繫久彌のナレーションが快適である。戦後10年の銀座は田舎のなんとか銀座みたいなのだが、清新な光にあふれていて、面白い。

  

とうとう11月になったのか

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  アンヌ・ケフェレック72歳。日本では隠れた人気があるというか、こちらはあまり知らなかったピアニストだが、容姿で人気なのかと思っていて、敬遠してきたが、意を決して21枚組を買ってみた。初めてウィキで確認してもみたが、おいおい誕生日が同じだったのか。

  鮮やかで野性的なピアニズムで、非常に驚いた。力強い。大変うまいのではないか。小気味よいリズム感とダイナミズムがあって、ようやく理解できた感じである。

  ついでに、もってはいるのだが、新たに50数枚の発売当時のレコードを模したのが出たので、サンソン・フランソワも買ってみた。あまり気にしていなかったシューマンの1950年代の録音、その他敗戦の年の録音などもあるが(フランス人だから勝利の年か)、決して録音の質も悪くない。高校時代に我輩が聞いていたレベルの音は確実に出ているし、そういうももっとした音が好きでもあるわけだが、こちらも、何というか、ほんとに音符のちょっとした処理が人間的な感覚に照準化されていて、実に胸に迫る。

  11月をフランスのピアニストで過ごす夕方である。でももう11月なのだなあ。リモート生活ではいつも月日の移行は軽い。

11月になってましった

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  気になっていたアンヌ・ケフェレック。フランスのピアニスト。ウィキでみてみると、72歳。日本では隠れた人気があって、売り出していたの21枚組のエラートに入れた録音を聴いてみる。なお、今はこうなっている。

 

私の彼は愛で殺したかったのか


サーカス 愛で殺したい 1978


和モノJAPANESE LATIN DISCO 私の彼/しばたはつみ HATSUMI SHIBATA


【レコード紹介】サーカス 愛で殺したい/しばたはつみ 私の彼〜曲名も詞も歌手も違うけど同じ曲⁉︎〜【アナログレコード】なかにし礼 ミシェル・フュガン

  つまり、しばたはつみの「私の彼」はサーカスの「愛で殺したい」と同じ歌で、原曲は外国にあったと、昔そのことは知っていたかもしれないが、いま悟った。

  それにしてもサーカスは今も昔も田舎くさい。