panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

世界史の実験

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 柄谷行人のこの本、簡単に読めるかと思っていたら、予想外に面白く、はじめて柳田国男についても読んでみるかという気になった。柄谷には柳田論の本もあるし、この本自体も柳田論なのだが、日本の村について祖霊信仰という観点から扱った部分が内山節だのその他の共同体論と響きあっていて(というかそういう人々が柳田の影響を受けているのだろうが)、柳田無関心派としては、ちょっとした驚きだった。

 世界史の構造という柄谷のおそらく後期の主著はある意味わかりやすいし、ポキの議論とも似ているのでとても面白いとまではいかなかったが、この何だか軽く書かれた本のほうが衝撃が大きい。柳田批判は数多いが、こういう形で柳田を救い上げたものは少ないのではなかろうか。

 昨日も階段委員会という共同体的行事で疲弊した我が家ではあるが、共同体についてはやはりきちんと考えておかなくてはならない。日本固有の信仰としての御霊信仰なんかも、日本の農村のおだやかな地形や風土を前提にしており、やはりとてつもなく独特である。死んで何年かたたないと祖先霊にならない(合体しない)とか、家族の付近の山のところで我々を無条件に庇護するために控えているとか、あっちの世界とこっちの世界を自由に行き来するだのとか、日本人の考える神のあり方というのは、圧倒されるほど、柔和だということもに気づく。

 でももう誰もそんな祖霊について実感として認識している人々はいないが。ま、うちの母(ただし実母。継母はいない)くらいではないか。残るのは。でも果たしてユリは実は、生きているのか、死んでいるのか。それが問題だなあ。 


Renaud Capuçon & Khatia Buniatishvili: Dvořák, Romantic Pieces