panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

バクスイ・イン・イマ


  昨日は非常に疲れてしまい、帰宅して食事すると、居間で倒れ込むように爆睡してしまった。気づくと結構時間がたっていて、こんな季節に寝ていると風邪をひくと思い、必死になって自室に戻ったが、ずいぶん疲れていたわけである。
  そして今日も職場。5日間職場。めったにないが、やはりなあ。でも今週末の名古屋行きが中止になって、ちょっと休める。
  7日締めなのでクレジットカードで頻繁に買うのが月初めのころの習わしだが、このヴィヴァ君が安い値段で出ていた。イギリスで買うと日本の10分の1。しかも、今回は一週間も遅れて送られてきたオリンピアというオペラを買ったところだから、次回も来ることは来るのだろうからいいかと思って、そのイギリスの古CD屋に依頼した。着くのは今月末。だから来月のいまころではないか。実際は。長い忍耐の日々なのである。一枚のヴィヴァ君を買うのも。でも一万円超えるんだから、これって。馬鹿らしい。待ってれば千円台がやってくる。
  守田志郎という農学者の「日本の村」を読んでいる。40年くらい前の本。農村は知らないが、母(ただし実母)を通して酪農家の生活は知っている。知ってはいるが、日本の共同体は複雑な人間的知恵でできてるんだなあとつくづく思う。ここからはみだしてしまった人間が都会にくる。守田のいう「都市人間」である。都市人間は村をなつかしがる。しかし実態は、恨みがましく村を思っているはずだと守田という。けれどもそれを率直に表現できない。
  これを序文を書いている鶴見俊輔は、ヘソノオを切った上で日本の文化や過去をみていると表現している。つまり守田の冷徹な村社会分析はノスタルジーとは切れたあざやかなリアリズムなのである。
  いまならこの守田の議論もよくわかる。不思議と。そして・・・不思議だ。