panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

悲しき人間


  内山節によれば、自然(じねん)のままに生きるのが人間の理想だが、そうはいかない。なぜなら人間には「私」があるからである。しかし私があるのは人間としては仕方のないことである。でもだからといってそれがあるために、人間は理想的生き方から逸脱する。しかしあくまでそれが人間というものである。
  ここからかつての日本人は、人間を「悲しきもの」ととらえた。悲しき人間は肯定されてはいないが、否定することもできない人間の現実なのである。その悲しさから人間を救い出してくれるものが神仏の慈悲だと人びとは考えた。
  ヨーロッパ人は人間の人間たる所以は私のあることだと考えた。私は肯定される。日本では私は穢(けが)れをもたらすものであり、それはさまざまな形で取り払われなくてはならない。そこが最大の彼我の差異である。私のとらえ方が違う。
  私であった人間が死ねば、それは汚れた人間が亡くなったということである。それを自覚して死になさい。さすれば、阿弥陀様が悪人だったと思うものを救わないわけはない。だから、すべての人間は成仏できる。だから日本には地獄はない。地獄はただのお話にすぎない。しかしキリスト教では煉獄も地獄も現実的な死後の世界だった。
  日本の共同体的思考というのは、実によくできてる。というか、はっきりこっちのほうがポキには納得できるように思える。どうしてそう思えるのかわからない。何十年も欧米かぁ!みたいな本ばかり読んできたのに、、、。無駄だったなあと思う秋の完全な夕暮れ。