panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

雨があがっていた火曜日


  昨日は朝から晴天だった。うーん。予想がはずれてうれしい。昔は雨も寒さも好きだったのに、今では晴れと温かさが好ましいというのは何だか恥ずかしいような気持ちになる。
  昨日は夜は若人との飲み会で、もうコンパという言い方では表現できないような会合になっている。ただの飲み会なので、これは我々には一種の社会的義務だったコンパとは違うと思う。本来社会的会合が私的な会合化している、といえば、わかるだろうか。そういうことなら、ポキがでばる必要はないというべきである。歩き方といい、会話といい、若人は一般に公的な場でかつて求められた、目に見えない社会的規範を学んでいないし、むしろそれを破壊しようとさえしているというように思われる。
  昔、小田島ユウシというシェイクスピア学者が学生たちの知的好奇心の減退について感じたのは昭和50年代の話だった。その後半にとくに顕著となった傾向だったということである。
  彼は東大の先生だから彼の云っている好奇心の減退は東大生の話だと思われる。その後、さらに事態は深刻化し、知的好奇心どころか知的羞恥心も減退して、ある種の循環が完成したということになるのだが、好奇心は何かを知りたいという欲求、羞恥心は何かを知らないでいることを恥じる気持ちということである。
  ま、そういうことがコンパと飲み会との言葉の違い、あるいはその変化の背景にある事実なのだろう。
  それにしても、いまや飲み会のための安い飲み屋は外国人労働者の跋扈(ばっこ)である。完全に機械化された注文システムで、店員はただ注文をもってくるだけ。少しは日本語を話すが、もう会話が遮断されたSF空間なのだ、居酒屋は。
  前回の五反田はまだ柔軟に対応するミャンマー人店員であったが、今回は完全に機械とおぼしきネパール人たちの世界だった。外国人労働者なしでは日本の底辺労働は成立しないのだなあ。
  なら、できれば、もうそういうブレードランナーみたいなところには、一切行かないで死んでいきたい。なおSF居酒屋には生グレープフルーツサワーがなく、青リンゴサワーとレモンサワーにした。もう口中が甘くて少し閉口した。といってもよくしゃべっていたわけだが。閉口しつつ開口していたというのは、どういうこと?
  なお、写真はオリンピーアデと読む。オリンピアーデではない。・・・そうだったのか。