panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

雨また雨

(函館の実家の近所でもっとも好きなアプローチのあるお宅)
  帰京。あっちも雨ならこっちも雨。心の雨なのであろうか。あっちもこっちも病体だらけ。肺炎転じて腸炎その他その他。

  函館でようやく読む時間があったので一から読んできた。山崎正和らかつての教養主義的な啓蒙家たちが若手らをよんで議論しあうわけだが、どれも80台なのだから、若手はもう還暦に近い人もいる。現役は誰でも若手になるような連中が中心のポストモダン論。
  でも驚いたのは美術史家高階秀爾で、かつては日本に西洋を伝える代表的な伝道師であったのに、今回はいってみれば「方法としての日本」を全面に出して、西洋のいきづまった文明を日本の投入によって克服するといったような論を一貫して展開している。
  しばらく彼の本を買ってなかったから知らなかったが、こんなに日本美術や日本史に詳しい人だったのかしら。娘がたしか日本美術史専攻の京大教授だからその辺がネタ元かもしれない。しかし山崎正和のような保守派がヨーロッパ文明を擁護し(世界文明はこれしかない!という主張なのだ。驚くが、すでに我輩は知ってた)、もっとも西洋派だった高階先生が日本がいかに独自な文明なのかをたとえば漢字仮名交じり文などをあげて強烈に主張している。これほどの逆転はそうざらにはない。
  このブログでも関説しているとおり、日本という文明は相当に他の文明と違うし、ある意味(といっておこう)大変すぐれている。だから勉強しない大学生が卒業して外国行ってもはるかに外国人をリードできるのである。基礎的なところが感情や感覚の繊細さを含めて、他の文明にはないレベルにあるからである。というのが我輩の主張だが、高階先生はまさに同じことをもっと具体的に文とか書画とかに触れながら論じている。
  とうとうかつての洋学派たちが日本がいかに特別か(こういうことをかつて云ったのは保守側だけだった)に気づいて声高に啓蒙しようとしているわけである。なんという歴史の転回であろうか。つくづく戦後の主導的なリベラル学者たちって、世界を知らないたんなる田舎の秀才でしかなかったと思い知るのであった。みなさんも思い知るように。