panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

経典にもとづく生き方


  夕方、スーパーに暮らしの手帖があったので買った。新しい朝ドラは暮らしの手帖の編集者だった大橋某の自伝によるので、その写真が出ていたからである。
  その後、テレビで地上の楽園みたいな引退後番組みたいなのを見ながら、議論になる。暮らしの手帖と聞くと暗い気分になる友人がいると家人1はいう。さらに自分は婦人之友でそういう気分になると。
  昔、意識高い系の母親たちは戦後の理念教育の影響を受けて、こういう意識高い系雑誌にもとづいて子どもの教育を行ったのである。そして意識低い系の母親たちをいわば見下ろしていた。低い系の母親たちは身を縮めてそういう高い系の母親たちを仰ぎ見ていたのである。
  我輩は見下ろされる側の母(ただし実母。養母はいない)のもとで育ったので、その辺はなんとなく恥ずかしく思ってもいたが、そういう家庭はいたってのんびりしており競争的環境にはないので、前にも云ったように、学校が『次郎物語』(NHK)を勧めるときに、うちではたまにヌードも出てくる『バイキング』をみているような、ありがたくも堕落した家庭であった。
  ところが、それからもう何十年もたってみると、その意識高い系家庭で育成された高学歴娘たち---といってもいい年になわけだが---が、その典拠となった雑誌をみると気分が悪くなるというのである。しまいにマルクス主義のようなイデオロギー的典拠みたいなものも同じムジナだということで、反旗を翻すにいたる。
  そう考えると、意識低い系の我輩はその点では意見が一致していて、なぜ法学が嫌いだったかといえば、六法全書にすべてが書かれている(ようにみえた)ことに、いわくいいがたい反発を覚えたのである。そんなわけないだろ?だれが日々法律にしたがって生きているのか。馬鹿らしい。なんでも典拠をもとめて法律の条文なんかみるような生き方なんかしてるものか。
  こう考えると、暮らしの手帖、婦人之友六法全書は質的に同じものだ。ここでは経典と呼んでおく。聖書、コーラン、仏典、そしてイデオロギー(端的にはマルクス主義)も同じだといってよい。象徴的な一冊のなかにすべてが書き込まれていて、現実をそこから判断評価裁断できるという発想。
  これがやりきれない。我輩の場合は家庭において被害はなかったわけだが、高い系家庭では何十年もオリのように沈殿して場合によってはそれで苦しむということにもなる。
  PTAから帰って来た週や翌週くらいにはうちでも次郎物語をみた。でもしまいになしくずしに結局はバイキングをみることになる。それを子ども、つまり我輩たちが好んだからである。意識低い系の母親は総じて現実的だったということであろうか。やはりたんに意識が低かったからであろうか。・・・あまり感謝したいくないがここは一つ、母(ただし実母)に感謝しておこう。でも国宝級じゃないから。母の気遣いをそう思っている人がいるなら、それは間違いである。本人もバイキングが好きだったと思う。
  なお仏典は一つでなく注釈の体系として膨大な量になっており、一神教とは違うからやはりここでいう意味の経典からは除外しておきたい。