panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

風邪気味を直す


  今日はいろいろ雑用をした。しかし仕事の上ではしばらく刺激的な発見がなく、ノートは停滞している。こういうのは、循環気質と関係してもいるので、面白いことをみているのかもしれないが、自分の反応がないということなのかもしれない。
  聴いているのは大森からもってきたアンジェルス弦楽四重奏団ハイドン。ユーチューブのはその団体の演奏ではないが、アンジェルスのほうのハイドンカルテット全集6枚目の冒頭の曲。作品17の3番。ホーボーケン番号というのが一方ではついていて、変にアカデミックで興ざめなので、17-3と覚えておこう。って誰に向かって云っているのか?一人でいるもんでついつい空想の交流を求めたりして。でも今朝まで家人1はいたのだが。でも高等教育に勤労感謝の祝日はないもんで、職場に出発したのである。
  北の湖に関連して余計なことを書いたが、土曜の夜の番組でたけしが出ていて、昔、よく巷で、タニマチ(支援者のこと。もとは大阪の谷町)に囲まれた北の湖が大きな器で酒(ブランデー)を飲まされていたのを見たという話を聞いて、突然、無理していたんだなあと思ったことがきっかけだった。
  そもそも人気商売というのは悲しい商売である。社会の実体的な生産・流通・発見に結びつかない職業は将棋の棋士から、画家から、タレントから、俳優から、ゴルフ選手から、ともかくなんでもそういうものは、どんなに威張っていても、結局は経済的社会的基盤は脆弱である。そのために支援者には逆らえない。最近見たところでは、棋士の生活は非常に厳しいらしいという報道があった。オーケストラの楽団員だってN響以外は苦しいようである。
  船越英二という昔の俳優が息子某船越に役者にはなるなと怒ったという話もある。船越英二は脇役ではあったが大俳優である。その俳優がそういうのである。彼自身は晩年は湯河原で旅館を経営していた。息子のほうはテレビでは成功したが、私生活ではどうなのか、我輩は疑問をいだいている。
  そういう次第で、夢も希望もない話ではあるが、社会の生産構造に密着した職業を生業にしていないと、いずれは、人の意向に極端に隷属するような生活になってしまう、という可能性について、そういうとこをめざす人はあらかじめ考えておかなくてはならない。
  我輩が客商売というものの悲しい性質を最初に気づいたのは、亡くなった石原裕次郎先生が自らのショーではきわめて低姿勢で臨んでいたテレビをみたことによる。映画やテレビのイメージとは違い、とても丁寧であった。ホストっぽくもあった。それをみて若干衝撃を受けたのである。我輩は。これが客商売、人気商売の宿命なのかと。
  対して我輩はいつも傲慢である。つねにきわめて極限的に傲慢である。しかし本人は傲慢とは自覚していない。それほどに傲慢である。客商売ではないからである(そうであるかもしれないのだが)。そしてつねに対象者に対して上から目線でありつづけている。傲慢にも。それもまた我輩の生業の不思議な特徴なのであるが。
  ということで裕次郎北の湖よりは実は恵まれているということを感じてもいるのである。ほほほ。お笑いください。我輩の知人は。もほほ。