panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

ドイツの一方的な勝ちを聞いて起きる


  朝のラジオでブラジルが6-0で負けているというのを聞いて飛び起きたが、テレビでは確認できない。うーん。とか思っているうちに、なしくずしに大問題作成にとりかかる。今日は雨だ。
  ちなみに我輩がサッカーファンだと思う人はいないと思う。しかしちょっとしたことがあってどこが勝つかが重要な案件なのである。コスタリカが勝ってくれればよかったのだが、オランダに負けた。
  さて近代の超克論は日本が近代欧米を越えていくという構想というか発想だった。これはよくある発想で、田舎の秀才は東京を否定するために外国に準拠点を置くというのが戦前では一般的であった。あるいは東京生まれの小林秀雄が立身出世主義の官僚や医者たちを否定するためにフランス(ランボーヴァレリー)に仮託するというのもその例だろう。
  つまり歴史の三分法とこれは似ている。直前の過去(第一過去)を否定するために第二過去が動員される。第一過去が中世となり、第二過去が古代となる。だから近代は古代の復活となるわけである。
  一番の敵を否定するために遠くの敵と(空想上のであれ)連合をするという意味では国際政治の論理も同じといえるだろう。
  こうして自分の成分分析の一環だが、東京的大価値を否定するために、我輩の青春はヨーロッパに準拠していたということなのかということを思うわけである。フランスが空想上の連帯対象だったが、二度行ってもう一生行かなくていいと考えた。思ったとおりであったからである。何か差別されたということではない。フランスはなくてもいいのにそこにあったわけで、イギリスに住んで近くにあった以上は仕方ない行ってみるが、もうどうでもいいということなのである。適当?気分次第?ま、そこまでひどくはないと思いたい(むしろフランスのホテルに牡蠣の殻の破片をおとして何かをつまらせてしまったのだから、損害を負ったのはフランスである)。
  ということで今の問題は東南アジアである。当然ながら。なぜいいとか思っているのか。今朝も一〇分くらいの東京MXの番組でタイの屋台紹介のを覗くと、やはりいいわけである。これは初めて実態としていいと思った例なのではないかと思う。つまり第二過去でも東京的日本の否定でもなく、それがそのままにいいと思っているのではないか。何かの否定の弁証法が動いているわけではないと。
  そこに日本製でないビールが必然的に付属しているという実利的な意義もあるのだが、それゆえにますます東南アジアというかある意味元祖日本文化ともいえる素朴な照葉樹林文化(焼き畑を基調とする雑穀・根菜型の文化。つまり稲作文化ではないという点が重要)がそれ自体として価値をもっているという風に考えているわけである。
  と昨夜ふと思った。佐々木高明の新書は読み終えた。概観には一番適当な本かもしれない。そして中尾より佐々木がこの議論の代表なのだということに遅ればせに気づいた。