panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

忘却と郷愁の彼方としてのインドシナ


  もう少しで7月である。7月には実は我輩の仕事は終わらず、8月までずれ込むというのが最近の傾向で、昔は7月の25,6日には解放されていたのに、と思いだして、いま急に腹が立った。大衆化し平均化すれば何でもいいというのか。
  しかし何やら解放感らしいものはあり、そうなると東南アジアの古い本を読むという悦楽に浸ることができる。というか、そういうものを読むことが悦楽になったわけである。早速書棚のまだ十分目を通さない本をとりだした。
  この二冊は60年代末に出た翻訳で、みすず書房の本。小型の判型で、手に馴染むが、いわゆるみすず書房調の簡素でそのくせ気取った風な装丁ではない。当時はまだみすず書房調がなかったというよりも、東南アジア関係の本に気取っても仕方ないと思ったということなのか。
  それでもそれなりに風情があって、昔の西洋人がとらえた東南アジア(必ずしもインドシナとは当時は重ならない。両者の境界は時代により異なる)を50年近くも後になって見直すことの快楽というものがある。
  ブックオフなんかでもう誰も買わない古−い写真版の東南アジア関係の旅行書。100円だったりするのだが、その古色蒼然とした写真がまた悦楽である。細部まで明快に映る写真にはない魅力がそうした写真にはある。せっせと買ってきては、もうどこにもない、かつての東南アジア歴史世界にひたることができる。
  この2冊は研究書なので、ひたるだけではすまない。ま、よまないと。目より頭を使わないとなあ。