panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

日本人の新しかった結合形態は何百年かしてとうとうアホを生むようになった、、、ということ?


  陽気がいい。病院から戻って返すように云われたDVD『舟を編む』を見る。松田龍平宮崎あおいも苦手だ。おいおい、あおい。
  映画自体については、何といわれようと、カット割りが少なすぎると思う。ワンシーンの長回しが過ぎて、はっきりいって、わたしゃあ、退屈してしまうよ。何度もカット割りでつないで初めてリズムと詩情(あるいはリズムの詩情)が生まれるのであって、日常と変わらないのんびりした風情をただカメラに収めてどうする?バカなのかあ、君たち、あん?
  英米のドラマは筋をつかむために、さすがの頭脳不明晰、性格半狷介、性状平凡な我輩としても、何度も巻き戻しをするが、日本のドラマは映画も含めていつも先送りしてしまう。ボタンが違うよ、ボタンが。日本の場合はそれですっかり理解できる。そうしないととにかく退屈だ。あー、退屈。・・・アホか、日本人は。とやはり思ってしまう。資源の浪費という言葉以外の用語がみあたらない。
  ともあれ、先行きの怪しいこういうドラマだの映画だのをつくろうとする人種が、日本人勤労者たちのなかの、言葉は悪いが、落ちこぼれであることを祈る。もし頭脳明晰、性格良好、性状非凡な方々だとしたら(その可能性もないではない)、ぼくちんは、怒るべ。
  しかしやはりその可能性はなくもない。写真の二著を昨夜ようやく読み終えて、今日の日本人が室町時代の産物であることを確認する。この呉座というまだ若い東大研究員の日本史家は大変すっきりと階級闘争史観としての戦後日本史研究を脱構築してくれる。文章も達意だ。そして何よりも中世の日本人がいまの日本人のようによくわかる。というか、いまの日本人、震災以降の一丸好きのDNAが中世後期(室町時代)に形成されたということがよーく納得できる。
  一揆というのは我々が習った百姓一揆のような一揆なのではない。人と人のつながりを一揆という。だから二人からでも一揆なのだ。農民だけでなく、寺社、武家なども何かをなし遂げるために一丸となる。これが一揆だ。そのための契約を結ぶわけだが、そうした契約の典型が惣村だ。つまり日本の村だ。村は共同体なのか。いやむしろ契約の結果生まれたものなのである。呉座氏を読む限り。
  ただ時間をへてあたかも自然な流れ、生まれながらの共同体のように見えるというだけのようなのである。ま、実際は共同体的に我々を拘束するものでしか今はないが、もとをただせば、天災と戦乱がうずまく鎌倉末期、南北朝動乱などの時代に、これに対抗して生まれた新たな人間関係が一揆だったということである。だから一揆は結社なのだ。その典型である村も共同体ではなく、結社だということである。
  というように我輩は受けとった。ワクワクするような議論なのであるが、残念ながら、こうした研究があるにもかかわらず、呉座氏はまだ研究員である。いかに正規研究者になるのが今では大変かがわかろう。しかして、、、正規の研究者は90パーはボンクラばかりなのだがなあ。