panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

漱石、太宰、ヘミングウェイ、中也(中原)、ミヒャエル・エンデ、大谷崎、川端、、、、、、、、


  愛着障害の例に出てくる人の一部である。・・・こうなると何かものを書いたり考えたりするという人のかなりな部分が幼児期の母子関係に困難があるということなのか。
  その点からちょっとした議論を展開したものは、一昨日、パソコンの障害で消えてしまった。もう一度くり返したくないが、普通の人生というのが実はもっとも充実した人生であるということなのか、という疑問を展開したわけなのだが。
  しかも普通の育児を受けた成人の3分の1がやはり不安定型愛着障害というデータが出ている(たんに成人の3分の1だったかもしれない。寝っころんで読んでるもので)。だから、これからいえば、単純計算であれば、夫婦ともに愛着障害でない家庭の確率は3分の2×3分の2=9分の4ということになるのだろうか。
  普通の家庭で育つ人間の確率は半分以下だということだとすれば、普通ということがいかに普通でないことなのかをこれは示しているということになる、、、のだろうか。
  普通に何かであるということは、考えてみれば、かなり努力のいることである。大人はそういうことを知っているが(というか大人になる過程であるいは結果としてそういうことを知るといってもよい)、お子さまや青年は知らない。だからそういう青年一般の意欲的人生設計と愛着障害からくる遮二無二な?上昇指向的人生の区別が若いうちはつきかねるのだが、長じてもいぜんよい子として何か見果てぬ夢に追い回されている人があれば、それが何か言い知れぬ深淵をかかえているとみてよいのか。とすれば、人生の夢だとかチャレンジだとかをテレビやメディアが始終云っているこの後期資本主義(といわれるものだが、まだまだ全盛期にいたっていないともいえるかもしれないところの資本主義)は愛着障害をむしろ助長・正当化していって悲劇的な結果を多数増産することにつながるはずではないかと感じる。
  普通にいい、ってそんなにありふれたことではないわけなのであるね。だから普通にいいっていうことになったんだろうか。
  写真は届いたニコラーエワとはちがうが、ま、ようやく届いた。13枚組でバッハとショスタコが堪能できる。一カ月近くかかったわけだが、HMVのお取り寄せだけが可能なCDであるような感じである。