panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

ピアノの平均律を聴く、、、、くらべる


  ニコラーエワの平均律をようやく聴いた。13枚組はこれとショスタコ平均律を聴くのが主な目的である。バッハのほうの平均律を大体聴きながら、その間、『愛着障害』を読み切った。マーガレット・ミッチェル(風とともに去りぬ)も愛着障害だったとは。ま、それはそれとして、、、
  次が結論である。といっても平均律演奏の評価である。横綱はグールドとグルダ。グールドはもう心の中で鳴っているだけで聞くことは年に一二度であるから、現役の横綱グルダということになろう。グールドは親方といったほうがいいか。
  グルダは晩年にその才能に気づいた。晩年はグルダの晩年であって、我輩の晩年ではない。念のため。その可能性はなくはないが。カセットテープに残されていたモツ君ピアノソナタ集と同様、マイクがピアノのすぐそばに、おそらく置かれた録音で、手や指のうごきが直接感じ取れるような演奏である。音の広がりより、リズムの機微が直截に表現されるし、装飾音も多くて見事である。
  もう一回優勝すれば横綱になる大関として、アファナシエフ。これを日常もっとも繰返し聴いている。職場常設なので。とくに特徴はないようにみえるが、一音一音の構築性はグルダに近い。でもグルダ的遊びはなく、あくまで音楽の精みたいなものに沈潜した形の演奏。最初は平凡でがっかりしたが、数年して誤りに気づいた。
  コロリーロフは西張出大関か関脇クラスか。もっとも期待して聴いたし、一曲一曲は見事なのだが、通して聴くとある種の平凡さというか退屈を覚える。途中ギブね、みたいな。コロリーオフの偉大さについてはもう少しこちらの研鑽が必要なのかもしれない。
  同じく関脇としてギーゼキング。放送用録音で相当古く音質もよくない。破天荒なスピードもあって一見無造作な演奏にみえるが、聴くものを飽きさせない。テクニックはグールド並である。他方、同じく古い演奏ではエドウィン・フィッシャーがある。これはかなり聴きにくい。どういうことなのか。ギーゼキングくらいの感じで聴きだしたのだが、案に反して聴き通すことはできなかった。いつかまた聴き直す。
  ポリーニは未聴だが、アシュケナージバレンボイムという今日の巨匠については、バレンポイムはどういうわけか退屈する。かなり変わった解釈をしており、その意味合いがよくは理解できない。他方、前に音が悪いと酷評したアシュケはそれにくらべると、音の粒がそろっており完成度は高い。しかしアシュケが平均律をよく考え抜いたという風には思えない。持ち前のテクニックで一気に弾ききったという印象。小結。
  テューレックはその後の英米系の演奏のモデルになったかもしれないが、独特な間というかルパートがかかっているところがスムーズに受け入れがたい、という致命的な相性の悪さを感じる。安かったからまだ救われる気がするが。前頭ね。
  さて肝心のニコラーエワは、うーん、かなりよいが、カドバン大関といったところか。とくに工夫はないが、それがいつもの彼女の弾き方で、そしてそれが心地よいということもある。
  そういえばもう一人の巨匠を忘れているが、車に積んであるもの。名前を思いだしたら記すが、うーん、こういうものは年とってから入れても(録音しても)均質な演奏はしにくいんだなあ、という悲しい認識をえた。7080代では無理ではないか。
  平均律一つをとっても技量の違いというのがよくわかった。ということで。