panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

まだ腹がダルオモたいですたい


  夜である。ケンミンショーは録画はしているが、ためにみないことが多い。でも和風総本家などと並んで、自分が日本の何者もしらないことに愕然とするために録画する。古伝統、近代伝統、職人の世界、各県の様子・食べ物・風習などはこんな番組でもないと生涯知らないでいたであろう。決して日本的自画自賛番組ではない。というか日本人が自画自賛できるようになれば、世界標準化したとすらいえるだろう。誰が自画自賛している社会人をみたことがあるのだろうか。いつも自画卑下、他画称賛が日本人の悪い癖ではないか。
  正月つくってもらった甘納豆入りの赤飯はどうも北海道・北東北を中心とした伝統である。母(ただし実母。養母はいない)はこれが嫌いだった。実母は普通の赤飯に塩をかけて食べるのが好きだ。でも我輩は一度か二度食べた甘い赤飯に没入している。没入していはいるが、とんと食卓にあがらないので当然まぼろしの食物となってしまった。今回つくってもらったわけだが(ただし家人1に。しぶしぶと)、我輩の趣味にあうのである。あの塩味の小豆の赤飯のどこが美味いのか、我輩には理解できない。生涯理解できないだろう。
  しかしなぜ実母が甘納豆入りのが嫌いなのかは最近わかった。昔は小豆を煮るところから始めてあんこをつくった女が、つまり実母だが、案に反して、あんこ系が嫌いだったのである。ゆえに甘納豆入り赤飯など嫌いなわけだ。では、どうして焦げないようにと、小学生の我々兄弟をして、北海道の石炭ストーブの上に置かれたあんこ入りの鍋をずっと延々とかき回す仕事を強制されたのか。つくらなければいいのでは?
  そこが伝統というものなのだ。昔の女は一からなんでもつくらなければいけない。そういう伝統的規範にしたがってさして魅力的とも思っていないが、伝統的なおはぎなどをつくっていたわけなのだ。その材料としてのあんこだったわけだ。しかも、我輩は慈愛に満ちた母(ただし実母)のつくるものとして、あんこ系を愛し、おはぎに傾き、しまいに甘納豆入り赤飯すら愛する、愛らしい少年となったのであった。
  思えば、甘納豆入りのを最初につくったときに、まあまあだねといっていた実母の言葉を聞いたような気がする。つまりつくってはみたものの、もともと乗り気でない作品である甘納豆入りなんか、義務は一回果たしたし、もうつくらないぞという決意表明だったのである。それを我輩はいやいやうまい、と激励して、ありがたくいただいたのである。
  思えば、我輩は、飽きっぽいとはいえ、とてもいい子だったとしかいいようのない人間であった。永遠にこれを読むことはないが、実母には感謝してもらってもいいかもしれない。
  写真は誰かのをひっぱってきたが、つぶあんではなく、我輩のかきまわしていたのはこしあんである。こしあん作りの最終場面になると、かきまぜるのを怠るとすぐに焦げた。緊張のあまり倒れそうになりながら、京都の職人のようにかきまぜていたのである。