panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

日本の秋


  昨日は仕事日で、明日も昼前から6時くらいまでずっと仕事になるので、今日は休日にした。認定してやったぞ。火曜日。
  母(実は実母。養母はいない)のつくった、こましげのジャムをなめながら、コーヒーを飲む。昨夜からアルド・チッコリーニのバッハのインベンションとシンフォニアに耽溺しているが、帰宅の車中ではウラジーミル・フェルツマンのそれを聴いてきたからである。フェルツマンは音もきれいだし、打鍵の深さも十分なのだが、どういうわけか不全感が残る。それを考えていた。おそらくリズム感がないのではないか。だからいま一つ感動を呼ばないと同時に、不愉快にすらなる。
  というわけで昨夜大森経由で帰宅後、チッコリーニのそれがあったので聴く。チッコリーニの全集も出ているが、日本ではいま一つ人気がない。でもこの曲についてはリズム感も指さばきの鮮やかさも抜群である。フェルツマンは気取った装飾音を多用するわりには、指が実は零点零何秒か遅いのかもしれない。だから機械的な音楽になる。というか音楽になっていない。
  ということを考えているわけではない。以上のことは一瞬で頭をよぎるだけである。
  懸案のコーヒーカップを買い、家人用にも一個買い、とおもっているとコーヒーミルを昨日注文したら今日届き、職場用だが一回自宅で試し、、、ということなので、意外と忙しい。
  一週間の仕事が昨日で大体は終わったので、深夜まで高野秀行先生の『恋するソマリア』を再び読んでいたから、やや寝不足である。
  それを補おうと、こましげを食べているのである。自宅にある高山植物?で、自家製だが(いうまでもなく母がつくった。でももういっているか)、貴重品なのである。北海道でも。こましげは。いつ山からとってきたのか不明だが、なんせ高山植物だから。
  ということでまた、北海道のことを考える。音響学で明らかになったように、農村部は高周波が出ている。それは人間を活気づけることになる。都会では20キロヘルツ以下の音波しか流れていないので、体に悪い。こましげから高周波のなごりをもらっているわけなのさ。