panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

二人のウラディーミル-----フェルツマン対アシュケナージ


  今日は職場の最後の仕事であるが、他人分の負担が大きく、ムッとする。我輩は人を頼まないのに、人が我輩を酷使するのは、公正の原則からいってもおかしい。データを提示しろと云ってみるが、相手にデータはない。適当にやってるからだが、それにしてもおかしい。ただ立っているだけの4時間半は脳細胞に死ねと云っているようなものなのである。くくくくくくくくくくくくくくくくくくくくく、くっ●うではなく、くじけそう。
  家で聴くと限られた印象になるからフェルツマンをもってきた。職場にはアシュケのバッハのパルティータがある。同じロシアン・ピアニズムの系譜だから比べると面白いかと思って。
  よく練られているのはフェルツマンのパルティータ。アシュケは楽譜をみてその場で自由に弾きました感が強い。いつもそういう感じがするが、バレンボイムほどではない。だからか、ややあっさりしていて、バルトリ的知性を感じさせない。見るからに、嵐の二宮君的なのだが、指揮もやっているわけだから、考えてはいるのだろう。知性を感じさせないほどの知性という可能性もある。あるにはあるが。
  家の狭い部屋で聴いていると、フェルツマンは、しかし、かなりしつこい感じがするが、職場の比較すると広い部屋で聴く限り閉塞感はない。むしろ快適な演奏だ。事実、6曲のパルティータに2声のインベンション15曲が最後に入っているくらいだ。これは珍しい。相当軽快に弾いているのだ。家ではそれが感じられず、くどいという印象だったのだが。
  というかもう自室で聴いていると、スピーカーが近すぎて、イライラしてくるときがある。自家中毒というか、そんなときもあるのである。四六時中聴いているからということもあるが、やはりある種の自家撞着というのはあるだろう。
  パルティータの3番がはじまったが、これもまたいい調子だが、音は深みがある。フェルツマンは世界的には評価は高くないかもしれないが、どうしてだろう?