panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

本で読む東南おおアジア----東南おおアジアは高田純次である


(スコールの中で食事する親子。でも彼らはミャンマーのシティガールたちなのであった)
  どうも血糖値か血圧が高そうな気がするのだが、あるいは目が悪くなったのか、いま一つ世界を精緻に(いろんな意味で)みつめる上で難がある、という感じがする。我輩の一番の特徴であったリアリズムを支える原点であるところの偏りのない認識がやや陰っているかという気持ち。
  ま、そんなわけで、いま読み落とした下川裕治先生の本やその一章を拾い読みする一方、まじめな社会科学的ミャンマー本にも目を通しているわけだが、やはり現実の、表面の、現象としての印象とは大きな食い違いがあるので、我輩としては、本の知識、あるいは本にするためのデータその他をまとめる「西欧近代」的な視角には、東南おおアジアを論じる場合には、相変わらず大きなバイアスがあると思わざるを得ない。
  具体的な例はあげるときりがないが、軍政で貧困と汚職と賄賂が蔓延したことは事実としても、国家自体は庶民生活の細部には入ってこない。これが西洋人にはわからないし、西洋人の目を借りて論じている日本人にもわかっていない。
  はっきり云って、東南おおアジアのようなところでは、国家の役割はもっと限定されている。国民経済のレベルでは確かに国家の性格は大きい問題だが、日常レベルではとるにたらないように思える。その点を無視して、軍政=庶民の圧政みたいなとらえ方では、東南おおアジアの現実を見誤る。
 ま、そういうことなので、本のいうことをまともにとってはいけません。大きくは左右するが、細部については社会の自律性というか、これまでのやり方がずっと続くのがアジア的なのである。称賛も哀れみも、日本のような生真面目な、国家が社会の隅々に浸透する歴史的背景のある、要するにヨーロッパ的なものと共通するところの多い社会では、アジアに対して過度になりがちなのだ。それは根本的な誤りだと思う。もっと、我々の想像をこえて呑気だし、はかりしれなく適当なのだから。東南おおアジアは。