panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

文明の移動


  おそらくこうだろう。この図は梅棹忠夫の有名な図だが、これは主に陸の文明を示している。しかも文明発祥の過程の後に出てくるものである。こうした大陸の文明ではミルクを家畜から盗んで飲んだり加工したりする。ミルクを飲む文明であるからこれを動物文明という(ⅠからⅣ。つまり中国、インド、ロシア、イスラム文明)。
  動物文明以外に文明はないから、この、4大文明から発祥した4つの動物文明圏に共通する要素がさかのぼって文明の基本構成要素となる。文字も金属器も。
  しかし実際はもっと古い文明がある。それを発見したか名付けたのは日本人たちだが(その一人が梅原猛だというのが驚く)、長江文明がそれだ。6300年前の気候変動によって誕生し、4200年前の気候変動で解体した。その際、長江文明の後に生まれた黄河文明も気候変動によって南下したことが解体の大きな原因の一つで、滅ぼされたということになる。金属器は武器に、文字もまた武器になったということであろう。長江文明には文字も金属器もない。それらは金属器なら基本的に戦争を前提にし、また文字は奴隷からの徴税を記すための手段として発展した。だから長江文明には戦争や奴隷が大きな役割を演じていなかったということでもある。
  その後この長江文明は一方では雲南山岳方面に逃れて現在の少数民族となり、沿岸地方にいた人々はボートピープルになり日本列島にやってきた。長江文明は動物文明とは異なり、動物をタンパク源としておらず、魚介類から栄養をとった。麦作家畜文明が動物文明なら、稲作漁撈文明がこの植物文明の特徴である。日本は彼らのもってきた種籾をもらって水田稲作をおこない、少数民族たちは山に棚田をつくった。機能的には同じことである。
  さてこの長江起源の植物文明は日本列島をこえて南米の二つの文明(インカとマヤ文明)をつくり、南太平洋の人類文化に大きな影響を与えた。これを安田嘉憲は環太平洋文明圏という。これらに共通の文明的特徴は慈愛なのだが、自然にやさしい文明とでもいおうか。
  こうして文明には二つの文明があり、いまやもたないとされるのは動物文明のほうであるから、植物文明でいこうということらしいが、それはさておき、カンボジアのクメール文明もどうやく長江文明の遺志たちのつくった文明のようで、でもアンコールワットみたいな巨大文明の前にきっと別の小さな文明跡があるだろうということで調査した結果、今現在、アンコールワットから西70キロのところにブンスナイ遺跡というのが発見された。これはさまざまな点で長江文明と共通しているという。
  つまり現在我々が知っている東南アジアの複数の大河を南下して、長江文明が伝達されたのではないかという壮大な仮説が生じているのである。ベトナムカンボジア、タイ、ミャンマー。うーん。
  こうした環太平洋域には実は国家のあり方についても独自なものがある。これを指摘したのはもうかなり古い本で、入江隆則という保守派の知識人だった。前に触れた。つまり、安田と入江は一方は文明と環境、他方は国家という形で重なっており、従来の世界歴史とは違った理解の構想が提出されたとみなすことができるといえる。入江は国家の専制化を回避するメカニズムをもった国家のあり方が環太平洋圏にはあると主張する。唯一の例外は中国文明だが、これはまさに植物文明を滅ぼした典型的な陸の動物文明の末裔である。ということであるなら、ますます環太平洋という視点が重要になるだろう。
  ということで、植物文明と、支配従属からならない環太平洋的国家システムの対応。
  博士論文っていうのはこういう壮大な構想をまず踏まえて、中心的なポイントを深く探求するものなのだ。わかってるんだろうか。