panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

台風はまだか?


  現在、朝は、天気ではないが、いい陽気だ。これでほんとに台風がくるのか。
  週末北海道に帰るという御仁がいるが、帰れても戻れるのか。もどかしい。
  昨日は、月曜日の準備も終わって、いつでも来い月曜日なのだが、下の昨日の図をみると火曜日であるね。関東来襲は。月曜日の夜はだから早めに帰宅せねばなるまいて。ううう。
  野蛮、未開、開明(文明)の3区分はもともとモンテスキューによるとされている。野蛮と未開の違いはかつての考古学では土器の使用に求められた。土器を使用するのが未開である。土器は重く、もちはこびにくい。だから土器は定住と一対である。定住するには農耕することが(必然ではないが)有利である。だから土器、定住、食糧生産(農耕もしくは牧畜)が未開社会の特徴ということになる。この全体が新石器革命という(ゴードン・チャイルドの命名。なおチャイルドは退職してイギリスからオーストラリアに帰った後、山から飛び下りて亡くなった)。
  農耕革命は一万年ほど前に起こった。文明の指標はおそらく都市、文字、国家だから、5000年ほどである。人類の99%の時間は野蛮か未開なのである。というか未開時代は1万引く5千だから、5000年ほどである。そういうことになるわけだが。文明の始まりとしてのメソポタミアにおいては(なおいうまでもないことだが、野蛮は農耕・牧畜以前だから狩猟採集時代である)。
  だから、人類は未開になったとたん、急激に文明化にむけて突進したわけである。大半、ちょっと利口なサルのように暮らしてきたはずなのに、なぜこの1万年で未開と文明を進化させ、ついには地球一個ではもたないほどの発明によって過剰な文明にいたることになったのか。
  とくに国家という発明品によって瞬く間に、それまで集団生活が苦手で嫌いだったサル的ヒトが雪崩を打ったように協同行動をとるようになる。この事態の評価について、手放しで称賛するものとしないものがある。しないほうは、国家を進化的必然とみる見方に懐疑的で、むしろ仕方なく生まれたものとみるはずである。これがアナキスト的国家論の始まりである。
  写真はシュメール文明のだと思う。