panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

ようやく45センチ角の座布団を手に入れる

  世の中はまことに我輩の考えるところと反対方面ばかりに行くので、さすがにぼんぼん育ちの我輩としてもいい加減、厭世的になってしまいそうである。
  長時間同じ椅子にかけるためお尻がおかしくなりそうなので、先日、適当な座布団を探しに外に出たことは書いた。代表的なデパートでもめざすものはなかったわけだが、親切な女性店員が2時間後に再訪した我輩に、ネットで調べた方がいいと云い、適当なものが安価でありますよ(=そっちでお探しなさい)と告げるくらいなのである。デパートでもネットなのか。でもその親切心に免じて、代用品を一個買いあげた次第である。情けは人のためならず。痛い出費だが、我輩も老人なので、そういう恩義には報いるのが文化的義務だと思っているわけである。
  さて、それで思いなおし、ネットをみて、ま、これかと思って注文したものが届いた。いま敷いているのだが、これが正解だったかもしれない。ありがたい。代用品にくらべると3分の1ほどの値段である。うーん。しかし我輩のささやかな希望に該当するのは、ネットでもこの一つだけだった。
  ポリエステルでなく、たんに綿(わた)のつまった普通の小さな座布団がなぜこれぼと売っていないのか。あらゆる種類のいわゆる一つのクッションはあるのに。・・・事程左様(ことほどさよう)に、いまや日本は伝統なんてものは片隅の偶像、テレビの日本宣伝番組のなかにしかなく、実際の生活の基幹部分は洋風で織りなされているのである。
  ベッドから起きあがり、パンと珈琲で朝を終え、洋服を着て、電車にのる。デスクワークなるものをし、ビールを一杯飲んで、帰宅すると家族サービスなるものをする。シャワーを浴び、ワインを飲んで、ベッドへ行く。丹前(たんぜん)はもう消え、タオルケットでは寒いねとか思いながら、寝るわけである。
  うーん。いかんともしがたいが、しがたすぎる(?)。戦後日本の文明というのは、洋風のよいところをパッチワークした、あくまで雑種文化(加藤周一)であって、しかもそれらは和風の基幹部分の上にそうしたものが成立したわけではなく、和風もちょっとおしゃれな外来文化としてもう一度意識的に採用されたものだけが生き残るということなのではないかと思われる。これでは日本文明とか日本文化とはいえないのではなかろうか。ま、そういう独自の混合文化ではあるのだが。
  綿のはいった座布団。これしきにこれほど苦労するとは、我輩のいまいるこの天国の生活も決して楽ではない。おこ!