panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

ぼやぼやしているうちに昼近い-----今回は乗り物ほぼ全制覇について


  やはりねっとり感があるね、日本は。バガンの強烈な直射日光は、人間存在の苛烈さを思わせるものがあるが、日本の湿気熱気の連合戦術はものを考える意気をくじく。
  さて今回は乗り物である。飛行機についてはランディング8回を記録した(つまり離着陸合わせると16回)。一回の旅行で8回は恐怖が4倍ということである。毎回思うが、飛行機が飛ぶのは不思議だ。
  飛行機8回のうち3回はプロペラ機であった。ひさしぶりだと思うが、いつ最後に乗ったっけ?覚えていない。しかし当然、心の中では、加藤隼戦闘隊の歌を歌う。これが今回の持ち歌だし、、、ってどういうこと?
  タクシーは無数に乗った。一回1000チャットから2000チャット。これを事前に交渉して乗る仕組み。タイではもういやでいやでならなかったタクシー。タイ半年で乗った回数の何十倍も乗った感がある。1000チャットは100円。だからせいぜい200円で遠方まで行ってくれる。迷ったことがあって、あっちこっちさまよっても、値段の上乗せはない。ミャンマー人は親切な上(その例は書いていないが)、ウソをつかない。タイ人魂というかタイ人的だましの精神というか、そんなのはまったくない。
  うーん、コウンバウン朝(ビルマ)はアユタヤ朝(タイ)を滅ぼしたわけだが、ずっとビルマ支配が続けば、バンコクももっとましな街になったのかもしれない。ともあれ、タクシーに乗るのに精神的苦痛はまったくなかった。たまに日本語で会話もできたし、チップを受け取らせるのに困るくらい(!)が苦労だった?。
  ハイウェイバス(バゴー帰り)と路線バス(時間にすれば相当時間)ものったし、ピックアップトラックにものった。サイカーという自転車の横で、ナチスの将校みたいにして乗るのにも乗った。そしてこれが大変なスコールで大変な経験になるのだが、いまは触れない。短期ではあったが、乗り尽くしたのでは?


(路線バス、いずれも)

ピックアップトラック

(サイカー。乗っているのは麻生元首相。夏のバイトである)
  バガンで馬車に乗ること、そしてバイクに乗ることだけができなかったが、御者の乗れ乗れ勧誘が激しくて、逃げ出したといってもいい。そしてバイクはそもそもヤンゴンにはない。政府によって禁止されている。車渋滞が激しいからね。

  ハイヤーというか一日半日のコースは各々一回乗った。郊外に出ると、椰子の葉っぱでつくった原始的な高床式家屋がたくさんある。それらを眺めるにはハイヤーは抜群。しかもハイヤーはクラウンだった。とても快適だった。運転者も礼儀正しく、我輩はマスターと呼ばれたのであるし、乗り降りはいつも彼がドアを開けてくれる。ふふふ。でも我輩はマスター(修士)ではなく、ドクターなんだが。もほほ(ちなみにうちはキューブ。後部座席の快適感が全く違う)。

ミャンマー国鉄ヤンゴン中央駅。ちなみに略称はMR。だからバゴーで男子トイレと思って駅舎の職務室に入ってしまい失敗した。みていた職員たちは笑ったろう)
  そしてバゴー行きには列車を使った。訪ねるすべてのミャンマー人が笑う列車である。始発駅に行くと閑散としている。やはり乗る人はいないのか。と思って乗車すると(なにせ定刻より早く出た。こここここ怖くね?)、山のようにミャンマー人が乗っていた。我輩の前にはインド人できれいなサリーを着ていた。ということで、列車を外国人に見せたくないだけなのではないかと思う。それほど列車は、きききき東西南。つまり汚い(北ない)。
(席の前の女性。たまに痰をはいていた)
  扇風機もないから窓の風が頼りだが、強いいい風がいいかというと問題で、その分臭いも強まるから困る。つまり列車全体から芳香がしているのだが、芳香は魚介風味であって、どういう事情か、田園を走るのに、鮮魚市場の臭いがするわけである。だから風が吹かないと暑いし(しばしば自転車といい勝負で走る)、吹くと鼻がバカになるし、で二律背反。アリストテレス論理学をこえる仏教論理学ではもっと別の解もあるのだが、ミャンマー国鉄の普通車にはそんなものはない。

  ちなみに普通車に乗ったのである。切符を買うのが手動なので、売り場が普通車両とハイクラスなものを売るところが離れている。かなり。それで面倒だから、普通を買った。2ドル。200円。ハイクラス車両はリクライニングもつき、肩のよごれをふせぐ布もついていたが、4ドル。普通車両は木のイスで、あっちはふかふかだった。うーん。売り場を離すなよ、ミャンマー国鉄

(普通席売り場。行き先でも細かく分かれていて、行ったり来たり)
  忘れるところだった。フェリーニものった。いや、イタリアの監督が乗ってたのではなく、フェリーにものった。これ期せずして大爆笑じゃね?(でもフェリーニはずっと前に死んでいる)。で、これがすごい体験だった。ヤンゴン対岸の街までいくのだが、筆舌につくしがたいミャンマー人の大声と積極性にかなり鬱状態になった。
  真昼の炎天下の鬱。穴があったら隠れたい。物売りたちはまるで明治の弁士のように演説し(売るのに演説なのである。演説)、次々やってくる。咆哮(ほうこう)し彷徨する物売り。物売り地獄とはこれである。そして、、、あろうことかミャンマー国鉄車両内にも、同じく物売りたちがたむろしていたことを翌日知って、また鬱に戻りそうになるのであった。あー、しんどい。震度6強

  我輩はこれを書きながら、シューマンの幻想曲作品17を聴いているのだが(学生時代以来これはポリーニ)、どうもミャンマーとヨーロッパの間に引き裂かれ、しまいにミャンマー側にぐーーと寄っていくのをどうしようもなく止められない。・・・もう何千枚も苦労して集めた西洋クラシックともおさらばなのかもしれない。そういう季節にさしかかっているのかもしれない、なあ。