panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

イモとカボチャとの愛憎半ばする関係


  母(ただし実母。継母はいない)から自家製のネギとイモが大量に届いた。というか届く手筈なので、午前中はあけておいたのである。
  このご時世だから自宅横の、元盆栽場であった菜園でとれた無農薬のネギはもちろん歓迎である。しかしイモについては複雑な心理がある。長い背景があるのである。
  小学生以前から、うちの家庭では、イモは、たまに土日の昼に蒸かしたのが出てきた。たまだったと思うが、たまでなかった可能性もあるが、もう誰も覚えていない。それにカポチャの似たのもたまにあった。そっちはたまだった。というのも、北海道のまさかりカポチャを割るのは文字通りまさかりによるのであって、その辺の包丁では一大事業だったから、よく食べたようには思えない。しかしいったん割ってしまえば、核家族で食べるとなると何回か食卓に出てくることになっただろう。こっちも誰も覚えていない。
  いずれにしてもイモにはバターをつけたり、冬は塩辛をストーブの上で焦がして一緒に食べたので、うまいはずだが、好きになったかといえば、さやえんどうと一緒に入った味噌汁のほうがイモの食べ方としてはうまいように思っていた。当然、津軽三年味噌(白みそ)であるが。味噌は。
  ともあれイモは辺境の食べものである。アイルランド人が19世紀の確か半ばに、大量にアメリカに移民したのはイモ飢饉によるのである。主食がイモだったからで、アイルランドは辺境である。ゆえに、ポキとしても、大して食べていないようにも思うが、もう一生分食べたという気持ちなのである。
  だからあえてイモを食べたいという気分はこれまで何十年もなかった。そして今回分かったのは母はイモが嫌いだったということである。長年隠していたのか。イモのみならず、カボチャも好きではないということなのである。どういうこと?
  好きだから食卓に出していたわけではなかったのである。ということは経済的問題か。それとも人からもらうから仕方なく食べていたのか。それにしても、、、。
  いまやイモはポテトだし、かぼちゃはパンプキンである。当然、ポキは腹がたっているのであり、それがずっと続いている。しかしいまや、かぼちゃはどうでもいいが、ポテトとしてのイモは好きになった。送ってきたイモも進んで油で揚げようという主体的気持ちになっているのである。
  このイモとの長い心理的葛藤が解消されたのは、この実母がイモが基本的に嫌いだということがわかったからである。嫌いでも食べる。そういう姿勢だったことがわかったからである。ついでに前にも書いたが、汁粉というか甘いものもユリはそれほど好きではないということも判明している。なんという欺瞞だったのか。太っているし、甘いものは山のように実家にあるので、こっちもあやうく半世紀もこの母が甘いもの好きだと勘違いしてきたのだった。
  もうサガ(叙事詩を示す北欧の言葉)の世界である。ではなぜ甘いものは山のようにあり、かつ食べていたのか。それは仏前に備えるためなのである。毎朝。だからその結果、降りてくる副次的産物としての甘いものを処理していたということなのである。死者は甘いものが好きなのか。少なくともユリはそう思っていることは確かである。そしてビールもたまにあげている。それは酒好きの亡き父を偲んでいるのである。しかしユリは酒は飲まない。どこかに始末されるのである。深い闇なのか。親類の誰かにあげているのか。
  ということで、ポキはとうとうそんな呪縛を無視することができる境地に達して、フライドポテトはうまいじゃないかと素直にいうことができるようになった。ふふふ。102歳ともなれば人は成長するなあ。老いるばかりではない。
  このバッハのカンタータ131番は演奏の仕方では19世紀後半のもっとも濃密なロマン派のように演奏することもできる。第2,3曲を聴けば十分かと思うが、傑作の一つである。バイオリンが日本人佐藤である。