panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

不完全燃焼の夏がすぎる


  完全に長袖の季節になった。夏はもう終った。しかし何か、自分のなかで暑さの苦労の記憶が弱く、その分、澱(おり)がたまってスッキリしない感じが残っている。つまりそういう夏だったということだが、それにしても東南アジアで暑い中を歩く程度のことでも、ある種のスッキリさをかもしていたのだと知る。後知恵的に。
  今日また病院に行ってマンションの下の階の人に会う。ポキの通っているのはがんセンターである。だからガンなのに違いない。恐る恐る聞いてみると、子宮ガンで1月に手術したという。今日は定期検査で来院したという。やはり二人に一人はガンになるというポスターが正しいわけだ。
  でもそう思うと、人はいまではなかなか死なないので、ガンは天の与えた死亡機構だともいえよう。とすれば、ガンを克服すれば、再発しないかぎり、死にがたくなっているわけで、人はいつどうやって死ねばいいのだろうか。
  この解決策は、75歳か80歳以上のガンについては緩和治療を行うにとどめ、治さないというのが一案である。勿論小児ガンや働き盛りの人のガンは治す。これでよろしいのではないか。二人に一人ということは、そうやって死になさいねという生命の命令なのではないか。
  ということを101歳と称している我輩は考えた。
  ちなみに今日、生検の結果がでて、ポキの腫瘍は良性であった。ガンではない。ガンでないことは神のような我輩は知っていたが、それが裏付けられた。しかし術後の後始末で日々通院なのである。そういう次第。脳細胞が次々死んでいく音が聞こえそうだ。海馬も扁桃体も萎縮していく今夏のポキなのである。あらゆる活動が嫌いな人間でもやはり活動は精神の均衡を保つのには必要なことを悟る夏でもあった。
  ブエナヴィスタ・ソーシャル・クラブのCDを聴きながら。午後5時すぎ。