panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

通院後に戻る金曜日


  通院した後、2時間もかかったので、疲労して自宅に引き返す。今日は出勤したかったが、一人だけに電話して進捗状況を確認して、ひとまず安心して、戻ってきた。
  北海道には国宝が一つだけある。それが函館縄文記念館みたいなところに保管されている中空土偶なのだが、我輩は見たことがない。ただし昨日から引き続き登場する母(だだし実母。養母はいない)はこの土偶を発見した人を知っているらしい。というか、知り合いというほどではないようだが。
  ふふふ。大阪の人間は自慢話が好きだと昨日のケンミンショーでやっていたが、東京の人間は自慢話はしないらしい。こういうところがいかに東京の人間が妬み嫉み僻みがつよいかの一端でもあろう。我輩の血のヘモグロビンは大阪道頓堀製である。我輩は母を知っているが(当然)、その母は何となく国宝発見者を知っている。この軽やかではかないつながりを自慢したい。
  さて話はそこではない。ある本を読んでいたら、その記念館に行って、土偶でなく、一緒に発見された、写真の真ん中あたりにある穴のあいた平べったい二枚のものをみて、はらはらと涙を流したというくだりに、我輩も胸をつかれた。この二枚には、子供の足型が押しつけられている。よくみないとわからないが、上のほうに二つの足(指10本)の跡がある。
  そして下に穴があいている。どういうことなのか。それは、子供の足型を粘土にとるのは至難の業のようで、こうもきれいにとれるわけがないとその本の著者はいう。つまりこの足型は死んだ子供の足型なのだ。そして穴には紐をとおして首にかけていたに違いないという。つまり亡くなったわが子を偲んで、形見として身につけていたというのである。
  事実、これらの平べったいペンダントが発見されたのは大人の墓からであった。親が死んで形見も一緒に最後に葬られたにちがいない。そのことに気づいて、著者ははらはらと落涙するのを禁じ得なかったのである。
  縄文人が幼くして亡くなった子供を思う。サルでしかなかったヒトのなかにそういう心持ちが生まれたことこそが人間の文明を可能にした、というのがこの著者の主張なのである。そういう慈しみの心をサルがもたないわけではない。しかしそれがもっと利他主義的な集団的心性にまで高められたところに、ヒトのヒトとしての所以がある。これがその主張である。
  ということで、今度帰ったら見に行ってこよう。記念館をであって、国宝発見者ではない。もう亡くなっていると思う、国宝発見者主婦は。
  ちなみに今日はわかったが、私の通院しているところの我輩治療の責任者は我輩の高校の後輩だった。上磯出身の北大出だった。ということで、自慢話を二つ。・・・自慢話になってるのか?