panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

「賢者は政治をしない」


  明日からしばらくブログはお休み。一週間出ずっぱりではないので途中で書けるかと思う。と配慮しても、読んどるのか、日々の楽しみとして。このブログに愛読者はいるのか。
  トイレの前に山と積んである文庫本のなかに林達夫先生の『共産主義的人間』という有名な本があって、みつけたので、退職先生の信条でもあったし、エピクロスの名前が出てくるところを読んでいると(ただし断続的。トイレに入ったときだけ数分)、いかに自分がこの林大知識人に影響されているかをはじめて知った。
  「十字路に立つ大学」という論考なんか、毎年4月に思い出していたわけである。入学式頃になると教師が学生が向学心にあふれた人間だと錯覚するという文章から始まるのだが、どこで読んだか忘れていたのに、決まって思い出していた。だから影響を受けたという意識はまったくなかったのだが。
  若いころに読んだからであろうか。それにしても各所で林的知識人たらんとしたかのように、ほぼ彼の処世術を我輩は引き写すようにしてきたということを悟る。このエピクロスの言葉も同様。林自身、エピクロスを真似たのではなく、気づいたらエピクロス風のやり方であったという形でエピクロス主義者(エピキュリアン)を自覚するわけであるが。
  しかしそれにしては我輩の場合、仕事がこの格言を裏切っているというか、我輩の仕事への専心を妨げているというか。いずれにしても、この格言については林はこういう文脈で使うのだが。すなわち、「『賢者は政治をしない』という形での政治への介入」と。というわけで政治的な振舞のある種の型としてこの格言はあるわけである。
  とはいえ我輩が学んだのはもっと別の側面、「この穏やかな、徳高き、片隅の生活者である唯物論者」というエピクロスの一面、つまりは「隠れて生きる」達人としてのエピキュリアンの生き方なのではある。
  最近もまた、政治にかまけて職場を変わることになった人物がいたので、改めて書いておいた。だからといって、隠れて生きるのが坊さんだということではない。寂聴が坊さんなら、政治家のほうが人間としてましではないか。