panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

陶淵明、エピクロス、オウィディウス


  エピクロスは快楽主義者の祖であるが、当然、そこでいう快は精神の平穏(アタラクシア)である。庭園を買って、そこで同調するものと俗世を離れて暮らした。だから生活の指針ということが重要で、学説上の後継者はあまりおらず、長編詩人のオウィディウスくらいのものだろう(ローマ時代の人)。
  開かれた生活を尊んだゼノン(禁欲主義の祖)と違って、あくまで田舎に隠遁して仲間と暮らすというのがエピクロスの快楽主義である。禁欲と快楽ということばがちょうど逆になっているような具合である。
  時代はアレックスが崩御して後継者争いで混乱していた。アレクサンダー大王のことだが、アレックス。
  我輩の生活も高校時代は陶淵明(田園隠棲)、大学時代はエピクロス (隠れて生きる)が望みだったが、現在、そういう生活に近づくと、どうも散歩する庭園と仲間がないせいか、頭に血がまわらない感じもする。あるいは頭が回らないので血のめぐりがわるいということもいえるかもしれない。
  人生うまくいかないものである。「贅沢を必要としない人がもっとも楽しく贅沢を享受する」。エピちゃんのことば。足る(アタルケイア)を知る人としての我輩であるが、足らないことを知らない場合も足るを知るわけで、もしかしてあまりに足らない生活をしているのかなあと、思うのでもあった。
  いざ帰りなん、田園へ。