panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

もとに戻ろう


  大森で夕食を食べ帰って残りの半個小玉スイカをやはりデザートに食うかということになって、といっても一人芝居なわけだが、食べたらやはりお腹がピチャピチャいうようになり、仕方ないので仕事日でもあったので、もう仕事上の本はやめて、『神々の沈黙』に手を出す。
  聴くのはアメリカン・スタンダード・ラブ・ソングである。いまはサラ・ヴォーンだ。
  それにしてもブックオフで108円ものの、箱ものと彼らの呼ぶ昔の本が行くたびに補給されていて、行けば昔買えなかったものがあるわけで、結局10冊以上はもてないので、その辺あたりで妥協してもって帰るのをくりかえしていると、独り暮らしの広いはずの居間も何十冊もの新しい古い本で狭くなってくる。うーん。考えものだが、百円だしなあ。行くたびにこうだともう60冊はこえたから、家人1から3が帰ってきたときに何といわれるかと思うと、気が気でない。
  さて神々の沈黙は、3000年ほど前に人は意識を獲得したという主張で、かなり評判をよんだが、やはりキワモノかと思って無視し続けたのだが、言語とその比喩の作用によってギリシアの古典「イーリアス」の頃に、人は意識をもつようになったというのは刺激的ではある。ちょっと集中して読んでみよう。という間に、唄っているのはディーン・マーチンである。
  ヴァレリーの「海辺の墓地」という有名な詩を入れて画像で検索すると、函館の立待岬の写真が出てくる。海辺の墓地ではあるのだが、そういう思いはなかった。でもそうである、海辺の墓地なのである。こういうのを無視してヴァレリー的世界をどこか遠い、しかも価値あるものとして考えていた若年の頃の自分を反省することにしよう。南仏にあろうが、北の辺境にあろうが、海辺の墓地は海辺の墓地だ。
  ちなみに海辺の墓地からというエセーは辻邦生のものである。初版本をブックオフで手に入れた。だからその点をめぐって書いているわけであるが。
  ともあれ、昨日はパリは燃えているかをみながら、大した映画ではなかったんだなあと思いながらも、沸き立つ心根を感じ、往時のフランス映画をもう一度収集して見てみるかという気になり、同時に、ならばアメリカのスタンダード・ソングだのジャズだのを体系的に聴き返すかという気分にもなり、しまいに年に一、二度くらいしか聴かなかったグレン・グールドについても全部聴き直すかという気持ちになる。
  つまり往時の自分の形成過程を追体験するかということなのである。
  これはいいアイデアだと思う。フランス映画だって見たのは限定されている。もうろくな映画のないフランス映画だから時代の上限ははっきりしているだろう。あらゆる手をつかって、フランス映画だのフランス文学だの(これがまたいっぱい売ってるわけだ、ブックオフで)のなかで溺れるかなあという深夜なのだった。