panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

曇る木曜朝


  このくらいの天気がもっとも知性的ではないか。薄曇りである。
  昨日のように、職場に出て朝に会議があると、一日が台無しである。きわめて不愉快なのだが、会議中に不愉快なことがあるわけではない。というかむしろ自分の意見はいっているし、たまには通っているし、阿鼻叫喚(あびきょうかん)で進むということは(前にある人がいたときはあったのだが、物故してしまい)ない。
  ということは、会議というスタイルが嫌いだというしかない。まことにすまんこって。アメリカも嫌いだ、日本も嫌いだ、きっと現地に住めば東南アジアも嫌いだということになるだろう。うーん。
  でも皆さんは好きなのだろうか。そこが問題であるね。会議でとくとくと長時間話す連中というのは少なくない。若いのにも多い。部活も嫌いだった我輩にはとうてい理解しかねる様態ではあるが、こういう人は結構いるというのが長年の判断である。
  ともあれ、会議のあとはさらに会議なのに、当然さぼっているので(一日何度会議すればいいのか)、ずっと机の前で仕事をすることになり、6時前にはくたくたになってしまう。適当な気晴らしの場所もそばにはなく、敷地も狭いので気分転換ができない。
  脳梗塞の疑いもあるほど記憶力が低下しているから、気分転換の気持ちすら忘れているのが実情である。結果的に疲労困憊(こんぱい)して、2日で1日の原則が発動するのであった。ふふふ。ヘーゲル弁証法
  昨日朝つきそいの病院で新聞でノーベル賞関係の記事を読もうとしたら、自動的に朝日新聞を買ってしまった。うーん。バカだった。支払いをすませて気づいた。ここここここ、これだよ、ワトソン君。朝日がつぶれないのは。自業自得な所業に呆然。
  でもやはり本の新刊案内とか藤原帰一先生の坂本義和先生追悼記事とかがあって、新聞は必要であるなあ。藤原先生も坂本先生もサンフランシスコ生まれだったように思うが、国際政治の専門家たるもの、やはり外国勤務の親をもつことが有利なことは否めない。我輩の親だって、一族の冠婚葬祭屋だったが、たまに改まった席では、標準語をしゃべっていた。どんなもんだい。クイーンズイングリッシュでは勿論ない。大泉洋よりはましな日本標準語だった。
  あ、そういうことはどうでもよく、藤原先生は坂本先生を「厳しい先生だった。若い研究者が努力を重ねた研究の成果をわずかな言葉で一刀両断するのを前にして、厳しすぎると思うこともあった」と書いている。さらに理想主義者ではなく現実主義者だったとも云っているが、どこにリアリズムがあったのかむしろ聞きたい。今度藤原先生の奥さんに会うようなときには聞いてみよう。党派性もなかったというのだが、朝日岩波NHK中韓連関の中心だったんじゃないの?この連関は普遍の真理連合だから党派性はなかった、というのだろうか。まさかなあ。