panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

土曜の朝とパルティータ


  バッハのパルティータは鍵盤音楽の最高峰である。ちなみにベト君のピアノソナタは除外しているので念のため。なんのためかというと、まったくベト君のは理解できないので。
  その上でいえば、パルティータが人類がもった鍵盤音楽の少なくとも至宝の一つであることはいうまでもない。その上で云って、云うまでもない。っておがじぐね゛?という感じもあるが、フランス組曲がその次で、、、ということは前にも云った。その上で云って、云うまでもないが、前にも云ったのか。うーん。おがじぐね゛?
  ともあれ平均律で再評価したアシュケナージの第二弾であるパルティータを心地よく聴いているのだが、うーん、70をすぎてこのテクニック。気持ちいいくらいだ。美音でもある。しかしだんだん気づくが、これはこれで完成された演奏だが、グールドとは違う。
  グールドは人間嫌いで変わり者で、甦ったモツ君みたいに云われていた。生前。つまり今ならアスペルガーとか云われかねないピアニストだった。・・・しかしどうだ、あのパルティータの演奏は。パルティータだけではないが、一口にいえば、単調に機械的に響くアシュケナージ(ですら)とは違って、非常に人間味のある、インテンポなのに非常に微細なルパート(音を長く弾くこと)が実はかかっているようで、聴く人間、つまり我輩だが、その腑(ふ)に落ちる。腑腑腑。
  パルティータも何種類も買ってきて、今度こそと思っていたのだが、アシュケナージすらある種の無機的な音楽に傾斜している。たしかに無機的なのだろう。楽譜のままに弾けば。しかしグールドはそこから尽きせぬ抒情を汲み出している。パルティータが最高峰というとき、パルティータは我輩においては叙情的な音楽なのである。
  中学生から聴いてきて、その頃も今も、奇矯なグールドというイメージが流布して、どれほど人間的な音楽をつくる人物であるかは脇に置かれてきた。でも誰でも熱心にグールドを聴いてきたのは、この叙情性にあるというのが今朝の結論である。
  グールドはリヒャルト・シュトラウスが好きだった。シュトラウスは最後のロマン派である。グールドは遅れてきた最後のロマン派だったということであるのだなあ。