panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

戦後の独立と殺戮


  『消えた画』のポスターに『アクト・オブ・キリング』の名前がある。これはインドネシアの映画である。1965年9月30日事件後、約半年で100万から200万人が殺されたクーデターをめぐる再現ドラマ(殺害者たちがシーンを再現する)である。
  1965年というとポルポトの革命のちょうど10年前である。そしてこの年、命からがら、スカルノ夫人のデヴィ夫人が亡命することになるわけである。そのとき出川は生まれていなかったのではないか。といってもわかる人にしかわからないが。
  半年で100万人単位で殺害されるということは、カンボジアの比ではない。カンボジアは人口が少ないので、比率では圧倒的であり、全国民に殺害の危険が及んだという意味でも圧倒的だが、インドネシアの場合は明らかに政治的殺害であって、飢餓や事故での死亡は含まれない。華人(中国人)の殺害も何十万人単位だし、いやはや、かつてバリ島行って浮かれていた我が家族も経済力は華人には及ばないが外見は中国人なわけだから、危なかった(わけはない!)。
  何を云いたいかというと、アジアの解放に日本の激甚な敗北はなくてはならなかったが、いったん戦争をやめた1945年以降は日本に動乱はなかった。安保を動乱というなら云ってもいいが、岸首相が学生やものをいう人民を殺せと命令したわけでもないし、共産党員が組織的に殺されたわけでもない。だから、きっちりと1945年以後、戦後というのは平和な時代以外のなにものでもなかった。しかし大半の東南アジア諸国はその後も続く激動にNHK的にいえば翻弄されてきた。
  中国、韓国、ベトナム、そしてベトナムの関連でラオスカンボジアポルポトが政権をとるのはベトナム戦争が正式に終わった年である)、台湾(中国国民党による台湾人虐殺があったから戦前の日本統治の意味が韓国とは正反対になったともいえる)、軍政のミャンマー、戦乱はないが実質、中国同様の強烈な専制国家であるシンガポール、いうまでもなく人口2億をこえるこのインドネシア
  戦争を放棄したから我々は平和だったのか。必要ならアメリカは日本の憲法を変えさせて戦争に巻き込んだろう。実際にはたんに必要がなかったということではないか。アメリカは強かったわけだから。あるいは戦争を行える国にすると圧倒的なスピードで経済復興すると思って、アメリカは躊躇していたのか。どっちもありではないか。冷戦のなかでよい位置にいたことは確かだが。
  戦後の独立は東南アジアには動乱をもたらした。日本人が戦後という言葉やイメージにいだく一方的な想いとはまったく別の個人的な想いを東南アジアの人間はもっているということである。この点が、後年になるまで、我輩も実際には気づかなかった。そして戦後をのほほんと生きてきたのとは違う人々も日本にはいたということに、遅まきながら気がついた。
  東南アジアは、観光の一枚下の地層で我々の思いもよらないような感情がうずまく世界がいまでも続いているのである。
  と深夜だから、ちょっちNHK解説員みたいな凡庸なことを考えた。