panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

宗教はエピデミック(流行病)であると梅棹はいい。



  昨日の写真は北海道の写真で、誰かのを借りてきたのだが、忘れてしまった。申し訳ないとしておかなくてはならない。今日のはラオスルアンパバーン)とカンボジアアンコールワット)。
  今日は8月15日である。来年は戦争が終わって70年である。長い月日がたった。その間戦争をしないで、日本という国はよくここまで発展してきたものである。もっとはやく戦争のできる体制にあったら、あるいは軍需産業に手を染めることが許されていたら、もっと手際よく発展できたであろう。しかしその代償として、いまでも依然として平等に価値を置く社会をよしとする(無意識の)傾向が生まれた。発展のゆるやかさ(高度成長の奇跡の発展とは知識人のいいわけである。もともと大きな資産を戦前にはもっていた国であるわけで)が平等を育んだといってもよかろう。
  敗戦後、貧乏人だらけの国になって再生したわけであるから、一番苦しかったのは上層階層である。あるいは戦前の新興の金持ち階級である。だから国民の大半を占める貧しい人々にとっては、田舎の旧習をふりはらって東京に出ることのできた「すばらしき新世界」の始まりだった。その意味では功利主義的視点からは適切な出発だった。
  前にも云ったように(って誰に?ただブログに書いただけじゃね?しかもできるだけ少数者の目にとまるよう祈るブログなのだが)、我輩は平等は自由より価値があるという立場である。自由の社会的基盤は弱い。平等は大きな社会を維持する原動力としては自由に圧倒的に勝る。しかし自由が平等を駆逐するのが実際の社会でもあってみれば、平等を、どんな政府であろうと維持しようというのが、望ましい政策の一つの柱であると思う。・・・我輩は左翼ではないし、福祉国家論者でもない。
  ウェーバーはなぜコントラバスファゴットのような伴奏楽器をやるのか、と音楽家たちに、真剣に尋ねてまわったということは、前に書いた。梅棹忠夫は、戦後間もないころ、同一労働同一賃金の提言は本当に日本社会にふさわしいと思っているのか、と経済学者をつかまえては聞いていたという。大学生の子供をもつ親には年功給がはるかに合理的な制度ではないかと。またイギリス経済の専門家には、イギリス人は何を食い、どんな生活をしているかを問い、専門家たちはうーんとうなるだけだったという。
  自分の生活の実感から質問すると多くの専門家と称する人々には、ぐーの音も出ないことが多いということである。我輩にとっては昭和30年代から、平等は自由に勝っていた。回りにはあまりに貧乏人が多かったからである。
  とくに、自分のところの風呂を、同級生の中野君一家に貸すのが嫌だった(実名を出して申し訳ないが)。貧乏人の子だくさんであった中野一家が入った翌日から一週間は風呂に入るのが嫌だった。長じて中学でも同じクラスとなり、給食の食器がいつか中野君の使用したものにあたるのではないかと恐怖を感じたことも思いだす。・・・とんでもない中学生じゃね?
  貧乏と汚らしさはインドのように一体である。それが耐えがたかったのだが、とはいえ、我輩は根っからの平等主義者でもあった。平等に豊かになれば、汚らしさも消えるわけであったから。不平等に豊かになっても汚らしさは消えないということでもある。自分だけが豊かだけれども、で回りに貧困を発見してそれに心を痛めない、という心性は戦後の日本人にはない。それは中国韓国の心性である。断言しないで云っておこう。
  中野君は、何年も前、サッポロで独身のまま、死んでしまった。しかしながら、子だくさん一家であったわけだから、その家系は戦後の日本のなかで、みごとに繁栄している。