panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

演歌はフランス革命における「保守主義」である

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  雨になるのか。自宅にて。入院も無事済んで、自宅にいったん戻る。雨が本格化しなければ映画を見に行く予定だが、中古CDもみたいし、歩くことになるので、雨ならやめだ。
  さて昨日の北島先生は演歌の大御所である。誰でも知っているように。しかし演歌とは何か。むしろ北島三郎が典型的に体現していたものが演歌だったのではないか。つまり演歌とは北島三郎のことなのではないか。大御所とかではなく、演歌とは北島先生をさす言葉なのだ。
  亡くなった愚父?はゴンドラの唄をいつも歌って、哀愁を気取っていた。あるいは船頭小唄なんぞをよく口ずさんで、哀愁をただよわせていた。差別化戦略ではあったといまなら思うし、カッコつけていたわけであるが、このあたりがよく知られている曲でいえば、戦前の演歌の起源ではないかと思う。大人な雰囲気満載であった。当時の演歌は。
  演歌の原型は戦争でいったん中断する。戦後は、カバーソングというか、戦勝国アメリカになびく音楽が入ってきて、流行となる。そして、アメリカの歌をカバーをした一群の連中(ロカビリーだのなんだの)に危機と反感をいだいた日本の一部の人々が、演歌を創出した、あるいは明確にしたと思われる。つまり、フランス革命がもたらした自由主義に危機意識をもった人々が保守主義を定式化したように、演歌もアメリカ的なもの、モダンなもの、あるいは今後の勝ち組になるような流れに抗する民衆の、とくに田舎出身の、大卒でない、都会で働いているとはいえ故郷を捨てられない人々の音楽として生まれた。
  1960年代初期になって演歌という言葉が使われると我輩は記憶している。それまで演歌という言葉はなく、せいぜい流行歌であり、あるいはそのなかでも一定の曲を「演歌調」と云っていたはずだ。それが東京オリンピック直前あたりから演歌として浮上していくのである。
  その頃登場しヒットを連発し、そしていかにも田舎の兄(あん)ちゃん風情をただよわせており、そして最後まで一線で活躍したのが北島のアニイである。
  だから北島的なるものが表象しているのが演歌だといって、あながち間違いではないのではないか。春日八郎先生、村田英雄先生、島倉千代子先生、都はるみ先生、新川二郎先生、バタヤン、三橋美智也先生(函館出身)、バーブ佐竹(釧路出身)などあまた演歌の歌手はいるが、出自(函館から西へいったところの漁師町の出身)、上京の経緯と決意(故郷を捨てて出てきたが故郷を思いださない日はないと語る姿が昨年末テレビで放送されていた)、場末の流しの苦労、恩人作曲家との出会い(こまどり姉妹[北海道出身]と遠藤実先生の関係もそうだ)その他、北島先生は演歌が日本の基礎を支えている無名の人々の戦後、そして高度成長時代の心情をくまなく代弁するものだったように思える。彼の人生が一つの演歌なのである。
  まだまだ思うところはあるのだが、なにせそう思っているというだけで文献的な確証はない。いまウィキの演歌の項をみてみると、我輩の従来の印象もそうは間違っていないとも感じる。
  いずれにしても、もうとっくの昔に演歌は死んだ。我輩も演歌で好きな曲は昭和40年代はじめくらいまでに限られる。その後の演歌はある意味、惰性と堕落の歴史である。改めて「演歌風」ともいうべき歌詞と曲調がただただ模倣されくり返されるにすぎない。
  しかし高度成長期の草創期演歌には見るべきものがたくさんある。まだ流行歌といっていた時分の演歌のほうが傑作が多いかもしれない。・・・歴史としての演歌はその背景が消えるとともに形骸化していくということでもある。さよなら演歌。
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  北島先生は有名な馬主である。しかし草野仁が馬主であるのとはちがった意味でそこに必然性があると思う。北海道の函館近辺には馬が多い。農家には昔は馬がいた。我輩も母の実家で馬の背中にのった。引退したサラブレットすらその実家の厩舎にはいたのである。道産子の本来の意味は北海道の馬である。そして函館競馬は中央競馬である。こういう背景のもとで功成り名を遂げた北島先生が馬主になるのは、必然なのではないか。そして東京で彼の住むのが八王子というところにも、美空ひばりとは異なる地方出身者演歌歌手の真骨頂があるかのように思われる。
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  前にも云ったようであるが、北島先生は函館西高校の出身である。かつては西校出身者が函館市役所の主流だと聞いたおぼえがある。そして北島先生の弟は北海道庁でも出世した頭のいい役人であった。そう愚父が昔いっていたし、札幌で陳情か何かで会ってきたというようなことを云っていたおぼえがある。つまり北島先生もそのまま市役所に入れば、いい役人になれたのかもしれないのである。それが一介の流しの歌手として上京するのであるから、その決意はいかばかりであったろうか。そして北島先生は長男である。・・・故郷を捨てなければ上京できなかったのである。