panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

初心の人下川裕治先生


バガンの夕刻、家路につく人々)
  下川裕治については何度か触れた。いつも自分の年のことを書きながら(だからこの旅は何歳かが本によってよくわかる)、大変な旅を続けている旅行記作家である。買い漏らしたものがあるかとたまにアマゾンをチェックするのだが、これまで読まなかったコメントというか、最近の本についてのアマゾンの評価が結構厳しいことに気づく。
  彼の文章の素人臭さやユーモアの欠如についてはちょっち云いたいこともあるが、だからといってあまりひどい書かれ方をしていると、人ごとながら擁護したくなる。
  彼の一番の特徴はズバリ、30年以上前の会社勤めの放棄時に思っていたろう考えや感じ方を一貫して捨てていないことである。こうも長く世界中を旅して何十冊も本にしてきた人間だから、旅慣れていないはずはない。月に3,4度も国際線に乗り、月に1度はタイに行っている(我輩はエンポリアムという高級デパートで彼を見つけたことがある)。
  我輩はもうそれだけで立派だという気になる。毎月タイに行くのは相当にきついのではないか。しかも帰りは深夜便だろうから、シンドイことおびただしい。彼の原点がタイにあるとしても、こうも頻繁に行くとなるとなあ。でもその結果、相当の旅の技術や知識を身につけ、学んだことも多いはずである。だから彼がもっと別の旅のあり方を考えることは十分可能なはずなのである。
  だから、『世界最悪の鉄道旅行ユーラシア横断2万キロ』や『格安エアラインで世界一周』『鈍行列車のアジア旅』などという一連のものを読むと、どうしてこうも苦労旅にいたるのか、貧乏旅にこだわるのかが疑問なくらいだ。しかもアジアの人と深く知り合うわけでもないし、訪ねた先の都市をじっくりみるでもない。だからいっていつもカメラマンと一緒だから、本当に孤独な一人旅でもない。また、これから旅行する人の役に立つ情報も最小限である。だから不満に感じる人も少なくないのだろう。
  でも、彼は一連の新書シリーズでは、日本を捨てたり、東南おおアジアで沈没したりする人々について書いている。だから、そういう意味では、彼の旅は、現代日本社会への一種の批判的行為なのである。
  日本社会に安住できないので逃げ出すという、この年齢の人にはちょっち公然とは表明できないようなことを随所で平気で書いているし、そしてその結果、年がら年中、旅の空にいるために、しかも旅自体がつねに、危険とは云わないが、激しく苦しいものであるために、外見は著しく衰え、目に(写真をみるかぎり)光は消え、心臓に問題をかかえる(不整脈)という状態になり、生計を旅で支えるというある種本末転倒的状況をきたしながらも、初心を忘れない。
  何が面白いのかという気に読み手はなるし、ロシアでヴィザが切れそうになって慌てふためく姿は旅の歴戦の勇姿とは到底いえないようにみえる。沢木耕太郎もそうだが、意外と旅の事情にうといのではないかという疑いすらわくのだが、結局は、彼が根本的な成長を拒みつづけいる、というその姿勢に、やはり打たれる。
  今日の日本社会が天国のような機能的優秀さを実現しながらも、少しも天国的でないということをこの人は、自らの行為と自らの肉体そのものをある意味犠牲にしながら、小さな声で述べている。それが、文章だの文体だのの水準をこえて、強く我々に訴えかける。そこに下川裕治旅の命があると思う。

(こっちのほうが幸せそうじゃね?)