panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

脱いだらすごいんです


  朝快調に目覚め、疲れ切っていたのにどうしたことかと思いながら、原稿に手を入れる。勿論朱筆を入れるわけだが、実際には手も筆も入れるわけではない。どうやったらパソコンのなかにそんなもんを入れられるのか。と一人つっこみを入れながら(とはいえつっこんではいないわけだが。って無限後退じゃね?)、一気に卒論と同じ分量の原稿を最終的に完成した。・・・ま、文献案内の校正はまだだが。
  しかしいまどき誰が論文なんか読むのか。我輩は勤勉な論文読みだったが、もう全然追いつかない。本だけで精一杯だ。だから論文なんかせっせと量産しないで、小さい本の一冊も書いたほうが後世には残るのだからと人には云ってきた。そう勧めてもきた。
  しかし、実際書かなければならない段階になると、うーん、会心とはいわないまでも、ま、いい出来だった。というかそう思う。普段書かない人間なので、脱いでもすごいんですと題した次第。
  これは自慢でなく、論文は若いうちの習作であって、本がどんどん出る時代なのだから、本の形で残すというのがよい選択だという年来の主張をしているだけなのである。そうはいっても本も洪水だ。文庫や新書はもう廊下のゴミだし、同じ装丁なので思いだせないということが多い。もっとしっかりした形の本でないと、人は記憶してくれないね。
  神戸京都に園遊して家人の買ってきた(というか何度も懇願した)イノダコーヒーのエスプレッソを飲みながら。これは横浜高島屋の6階にも喫茶があるが、京都といえばイノダ。大変美味しい。でも自宅で飲んでるわけで、バンコクならちょっと外へ出て一杯というところなのだが。東京の都心でもそうか。・・・草加でもそうかもしれない。ふふふ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  よい文章の特徴はどこかに詩的な部分があることである。詩的な部分は絶対に捨てがたい。硬質な文章それ自体が詩的であるということもある。文章だけなく、あらゆるものに詩的な要素が必要だ。挙措や態度、決定や発言にも。場違いな野球の話で盛り上がるときに一人静かに小説を読んでいるというのも、詩的の例である。
  だから今度の文章にも詩的な部分がある。のみならずアッシャー家まで文章中に盛り込んだ。アッシャー家であって、ラッシャーではない。ましてや木村という名前がついているわけでもない。だからといってラッシーではない。ま、なつかしいが。ポー。ふふふ。朝10時半。