panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

なぜ日中は暑くなるのか


  熱くではない。暑くである。日中韓の日中ではない。となりのスーパーにクリーニングを出しにいくだけで、帰宅後は汗だくだ。
  今朝は6時までかかって例のラオス検視官ミステリーを読んだ。1976年のヴィエンチャン社会主義革命直後の混乱した状況で、これを舞台に、タイにいるイギリス人教師が書いた不思議な人物の物語。幽霊と交信できる医者のはなし。会話にユーモアがあり、プロットも複雑。やっぱりイギリスらしい探偵小説だ。イギリスもののアジア小説。競馬の騎手が主人公のサスペンスにも昔は大いに助けられた。イギリスなるものは散文的娯楽の殿堂だ。
  テレビでも、モース警部、フロスト警部、ニュー・トリックスなどあらゆる心の慰めがイギリスものである。ありがたいが悔しい。ホームズ、ポワロ(イギリス人によるベルギー人探偵ものということになる)、失念した同じクリスティの老婦人ものもある。
  でも同じくらい日本のさまざまな伝統はイギリスを凌駕する。たとえばマグカップはイギリスでは労働者階級のアイテムである。ゆえにイギリス首相はマグカップ片手に登場するのである。では日本は?・・・日本の陶器や漆器の多様さは目もくらむ。我輩は今年根来塗りの丸いお盆を一枚買って、勝手に一人ランチョンマットにしている。他の家族に漆器を注意深く扱うつもりはないので、人数分買ってきても意味がないのである。で我輩一人が旧来の布製のマットの上に独自なお盆を重ねて、食事を味わっているのである。
  さてそのお盆の技法や種類、産地はまことに多様である。陶器も同様。これほど民衆レベルで多様な文化的アイテムを好きに選べる国はない。そういう意味では柄しか差別化できない無趣味なマグカップなどお笑い草なのだ。
  にもかかわらず、ドラマは最低なのはどういうこと?日本の小説は最近読まないので別にして、テレビや映画のレベルは絶望的である。イギリスは現実はひどいのに、仮想現実はまことに充実している。残念でならない。
  で、結局、ラオス検視官は第2作もさっきから合間をみて読み始めた。うーん、比律賓では何を読むかが問題だ。