panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

楽園考3------失楽園にて(フォーレ風に)

  昨日ニュースで、バンコク時間の30日朝1時、つまり私がチェンマイから帰宅して爆睡中、また繁華街で爆発があり、一人のタイ人が亡くなったという。まずい。チェンマイでは6月のホテル宿泊率が1割であったというから死活問題だ(でも通常でも3割)。ますますツーリストの足が遠のく。我輩も行動範囲を再検討する必要がある。でも普段は全然安心ですからね、タイは。
  さてチェンマイ旧市街には無数の寺院がある。様式は似ているが、いろんな影響があるらしい(クメール=カンボジアビルマなど)。よく分からない。でガイドに推薦されたもので一番気にいったのはワット・チェディ・ルアンであった。東から歩いて行くと最初にゆきつく有名寺院でもある。こうした寺などを見ていくと、函館に似たところは一つもない。おっしゃる通りである。って誰か何か云ってるのか。でも事前工作をしておく。ふふふ。って云ってしまうところが謙虚なわけで。ほほほ。人格に全体としてのバランスが感じられないかな。もっほっほ。
  でも、のほほんとした感じや、すべてが止まって死んだような感じもするから、テイストは同じだと思う。意欲的にバリバリ働きたいと思う人間の世界ではない。ここに桃源郷を発見するというのは、よっぽど懸命に働いてきた人間とか(日本退職組?)、合理的な世界の強迫感というか切迫感にまいってしまった人間とか(近代白人?)、たんなるドロップアウトとか、不良外人とか、都会しか知らない人間ということなのだろうか。少なくともこの感じは小学生時代からよく知っている。
  ただ当時、それが嫌だというわけではなかったが、自分には合わないとは思ったのである。時が止まったような悠久の世界の感覚は、いい思い出ではある。大きな農園であった母の実家で、梨や葡萄の低い木の連なる薄暗い中をセミやカブトムシを追って歩く夏は、外から見れば至福のように見えたかもしれない。馬にも乗った。誰でもそうだが幼年期の記憶は幻想的だ。でもやりきれないとも、はっきり思ったのである。時間が前に進まない、変化がない、明日も昨日も同じであるという風に感じられて、一刻も早く脱したいと感じた。空が青く高く、雲が漂泊したように真っ白な北の夏の暑い午後は、そういえば、タイの田園のようであった。ブラウニングの詩のようでもあったが。年寄りはウトウトしていたし、大きな置き時計から、広い家全体に鳴りわたるボーンボーンの音も、時間が過ぎるよりは止まっていることを確認しているかのようだった。まだ、3時なのかあああ。何とかしてくれないかといったことを思いながら、青ガエルを2B弾で爆破していた。あるいはクワガタに殺戮注射と防腐注射を交互に打っていた。当時はそういうキットがはやっていたのである。お、仕返しなのか、タイの爆発事件は。
  楽園に関して、今回チェンマイ=函館一帯=故郷から引き出せる結論は、結局、2つである。互いに相反するが、この世に楽園はない。そして、どこにでも楽園はある。平凡過ぎてすまん。すなわち、1.この世の楽園(アースリー・パラダイス)は現実には存在しない。世界は常に問題含みである。厄介事は生きている限り避けられない。2.いずこも楽園でありうる。ものは考えようである。チェンマイに関連して云えば、我輩はかつてチェンマイにあった(2)。そもそも日本の田舎はかつてチェンマイであった。しかしそこに安住の地を見出すことはできなかった(1)。むしろそこを脱出したかった。つまり、我輩は進んで楽園を捨てていたのである。失楽園物語。でも捨てたことを知らなかったのである。道理で長いこと、あっちでもない、こっちでもないとやっていたわけだ。ここにも青い鳥の教訓があるのか。もしくは、聖書の放蕩息子であるね。なるほど。そして云えば、日本全体が放蕩していたのである。相当。
  この2つの結論に共通するものがあるとすれば、つまりそこに失敗でなく、救いを見出そうとするなら、それは、楽園は時制に関係するということである。1でも2でも、いまそこにある(現在における)パラダイスとは形容矛盾なのだ。かつてあったか、いまに来る。そういう追憶(過去)と希望(未来)のなかにしか楽園は、やはり、存在しない。したがって残るは比較でしかない。あそこよりもここ。でも比較されるパラダイスとは、これもまた、自己矛盾だ。
  いまはっきり思い出せないがキリスト教には千年王国論というのがあった。それは希望の形態における楽園志向である。宗教は大方そうだが、高度成長もある種のセクトだった。国民全員が参加しているから、セクトでなく、キルヘ(教会)型だとウェーバーはいうだろうが。しかし頑張ってる限り楽園ではないし、全体に銀行の融資のように詐欺っぽくもある。他方、プルーストの『失われた時を求めて』は過去(幼年時代)の楽園を仔細に追体験しようとする文学であった。江藤淳しかり。こっちはしかし、相当厭味ったらしい。よかったね、はい。といった感じである。---どっちをとるのか。成熟した人間、つまり我輩である(笑わないように)、がとりうる判断とはこうでしかない。楽園なんて云ってないで、ウェーバーの云うがごとく、日々の務めを果たせ、である。うーーーん、またこれか。
  この道がロイ・クロー。誰も歩いていない午後1時。向こうに見える山並みが妙に琴線に触れる。そしてチェディルアン2景。