panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

ぼたもち、買う

  病院の帰り、ぼたもちを買う。3個。秋の彼岸なので。一人でいま一つ食べたから、残るは二個である。度量をみせてあとの二つは家人たちにやろう。ほらほら。・・・もったいないが。
  ミャンマーで買ってきた人気のない(ミャンマーで買ったものは少ないが、人気のあるものはもっと少ない。ないかもしれない)お茶を初めていれて飲んでみる。紅茶でも烏龍茶でもプーアールでも、もとより緑茶でもない。なんだかよく自己主張していないお茶。のんべんだらりんとしている。健康茶に近い。
  ミャンマーの丸い文字は全然読めない。シティセンターで買ったものではないかと思うが、土産なのに引き取り手のないものが結構ある。あげるには何か根本的な華やぎが欠けている、ことに帰国後気づくわけである。ま、仕方なぐねぐね?
  午前中は今日は頑張った。背景とか内容は個人的なので書かない。それにしても、しばらくぶりに、生死の境目について考える。境目にずっといる入院患者や病気を思うと、こういうときばかりは、しなくてもいい想像力が躍動する。想像力、いらないときに活躍し。躍動す、想像力で死にそうに。二句、此岸で読みました。ただいま4時過ぎ。

秋、深まる

  今日は出勤はしないが、いろいろ仕事がある。個人的な調べ物がある。これが一番大切なのだが、個人的なことなので書かない。最初から個人的な調べ物と云ってるわけだし。というか何が何でも大体は個人的な事柄ではある。どうせならすべてに個人的なといれてもいい。標題も、個人的な秋、個人的に深まるとか。そう考えると、だんだん笑えてくる。読んでる人が笑えるかは別である。この笑いも個人的な笑いだし。でも読んでる人も個人的に読んでるわけで、個人的なクリックの結果なのでもあるし、、、、。もうやめる。
  この清気が東南おおアジアにも、朝方にはある。旅行者は夜(個人的に)遅いので朝(個人的に)遅く、そのため朝のアジア的すがすがしさを味わう機会が(個人的に)少ない(もういいか)。だから気づかないが、人間には、この秋の冷気と乾燥が必要である。冬は来なくていいが、来ないと細菌類が死なない。死なないと、アジアになってしまう。  
  ともあれ、東南おおアジアには、季節がある。訪れる人の「季節」があると思う。若く行っても深く味わえる人もいれば、年をとって深まる咸興というのもあるだろう。その逆もあるだろうが、でもいつか一度は訪れる機会をもつのが、この無菌社会日本の住人には、必要なのではないか。
  若いころに一度は訪れておくことが、後年、何か困ったときのお助け小箱の重要なアイテムとなるだろう。これは確実である。そして困ったことのない人生は(個人的に)ないから、小さな経験であれ、東南おおアジアを一度は知ったということの意味は、小さくない。おほん。じゃね?・・・・・・だね。