panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

発展発達展開という成長神話


  温暖だが今週は曇りが続くと予報が出ている。都会で天気予報なんかどうでもいいのだが、秋が嫌になってきたので、ひときわ天気が気になる。晴れろ。とはいえ、ま、どうでもいいのだが、やはり。
  ディヴェロップメントというのは社会科学だと発展、人文科学や教育関係だと発達、通常は展開とか訳すことになる多面的な言葉である。が多面的にみえるのは訳し方からくる日本語の語感からであって、本来は一つの言葉なのだから、同じような観念を背景にしているだろうと勝手に推測する。こういうときはOEDオックスフォード英語辞典なんかを引いて論じるのがかつての教養人の因習だが、考えてみるとなぜ英語ごときが我々の日本語を差し置いて深い意味合いをもっていると(いうことになっていないと引かないわけだから)考えたのだろうか。ポキの考えではフランス語をしゃべる王の支配する国だったイギリスはむしろピジョンイングリッシュのような形でまさに発展したと思える。ならばカリブ海の原住民のしゃべる英語と同じだ。日本語のほうが歴史的にはより古いはずである。
  横道にそれたが、いずれにしてもこの成長関連用語が今これほど頻用されているのは、やはり19世紀後半のダーウィンの進化論との関係があるのではないか。つまりあからさまにいうのは控えるという形の一種の一方向的定性進化、つまり進歩を前提とするキリスト教的世界観の用語の一つなのではないか。
  ポキも102歳を迎えており、しかしいっこうに成長する気配がない。発展でも発達でもいいが、いっこうにそういう実感がない。そして赤の他人をみていると、年相応に成長したきたようにみえるが、近い他人をみているといっこうに本質が変わらないように思える。つまり、成長なんかないというかなかったのではないかという疑惑が常々あるのだが。
  長くなると嫌だからもうやめるが、要するに人はそれほど成長関連用語で把握されるほどの存在ではないのではないか。
  それとも進歩という概念で照らされて理解されるほどの成長のほどをあまりみることがないのは、しかし、最近の現象なのか。
  そのへんがよくわからないが、孔子のいうように40歳ほどで本質顕現がおわって後はその彫琢なのではないかという気がする。でもそれが人としての発達なのだろうか。教育学の発達はある時期までの概念だということはわかるのだが、ともあれ人を進歩するものと抑圧的にとらえるのはやめようということなのだがね。