panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

日本動員社会の闇ではない

https://www.msn.com/ja-jp/sports/news/パワハラ告発の宮川選手-塚原副会長の「全部ウソ」に「想像していた」と苦笑/ar-BBMDVDw?ocid=spartandhp
  スポーツ選手は昔はバカだった。少なくともそうと思われていた。ガッツ石松やハワイのおばあちゃん元気?といった日系の拳闘選手などから始まって野球選手まで。だからこそ、われわれ敗戦国民たちは老いも若きも、彼らの言動を純粋に楽しめたように思う。長嶋がなぜ国民的人気をもったと思っているのかね?ワトソン君。お笑いもバカだと思われていたから、当時、彼らは劣等感の塊だったらしい。これはスポーツ選手とは少し位相が異なる(いまではスターだからそうではないことはいうまでもない)。
  しかしいつからか、きちんと自己表現・分析できるアホでない選手が出てきて、そのイメージが変わったが、しかし依然頑張ることで、上へ行くことを目標とする点ではやってることは変わらない。
  でも結果を出すとか、結果がすべてとかいう表現がなされるようになって、その直截な上昇志向、結果志向の表明がポキをうんざりさせた。一時、女性水泳選手が楽しい系の言葉でオリンピック出場を喜んだことがあって、厳しくたたかれ、つまりは社会もこの上昇志向、結果志向に同一の心情をもっていることが露呈した。
  つまりハングリースポーツが近代社会の本質を表現しているのである。平等に出発点にたって競争するといった能力主義が社会存立と社会発展の編成原理だからである。いまさらいうまでもなく、近代社会は原理はスポーツと同じなのだ。
  今日は論じる気力がないが、この結果を出すというような言葉を使ったのはサッカー選手が最初だったと思う。それから猫も杓子も結果結果とうるさい。過程を楽しむコンサマトリーな喜びは最初からない。これって、受験に成功するか失敗するかしかない二者択一と同じだ。だからポキは最初からこの言い方は不愉快だった。というよりうんざりしていた。おそらくサッカーの中田が云いだし、受けたのだが、早々に引退し、いまや中田は実業家だ。お笑いを早々に退陣して、エムシーだとかいう司会者になるのを上がりだと思っている芸人連中の先駆だともいえるだろう。
  結局、前にも言ったが、「現在を手段」(社会学マッキーバーの言葉)にして何かを追い求める「マイナス1」が原動力の近代的生き方がスポーツでも一般化しているということであろう。そこではつねに何か足りないものを求めて、実人生をその過程の一階梯としているわけだ。いいかえると、というか簡単に言えば、スポーツ選手は結局スポーツそのものはどうでもよく、それは世に出、人々に先んじる手段なのではないかと思われる。
  年をとればそれが権力志向となり、財産構築だったり、名誉追及だったりするような俗物主義は、要は、近代社会あるいは現代スポーツそのものの延長なのではなかろうか。でなければ、どの競技でも日大から始まって同じような成功者の傾向がうかがわれることの説明がつかない。そしてそれはまさに、近代社会そのものの正当なあり方だということでもある。
  日本という近代的な動員社会の性格を映し出すスポーツ界の惨状?もしくは現状は、だから、闇ではない。近代社会の明そのものだったということなのだと思える。