panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

グリゼルダを聴きながら解放の甘い疲労感を堪能する


(実際に聴いているのは三枚組のナクソス版。そこではジュノーは歌っていない)
  外は雨どころか雪である。昨日は卒業式だったが、雨で、今日はもっとひどいということである。どうにかあの程度の雨でも助かったということになるのだろうか。
  さすがに疲労したのはその式だからではない。その合間にある重大事でずっと会議をしていたからだ。朝9時から。そもそもその時間に着くためには車出勤は危険である。実際5分ほど遅れてしまった。そして午後の式のあとでもまた会議の延長。実に苦しい一日だった。
  でも、なんとか会議は決定をみず?、継続となり、そしておそらくさぼれば、4月のポキの任務は回避できる。当然ともいえる。さぼれば回避できるのは理の当然である。しかしほぼ解放された気分である。パリが燃えていてもかまわない。ポキは解放された(映画「パリは燃えているか」の本歌取りだが、ま、どうでもいい)。
  残った事務仕事は少なくない。それに引き継ぎの相手がこれまた官僚制大好き人間の一人だから、細かく詮索されるだろう。面倒くさい。そもそも自然に忘れているだけでなく、やるだけはやったが、その都度忘れようとしたということもあるわけで。
  この一年で知ったことは、日本社会の根強い共同体的性格、団体社会としてのゆるぎなく、誠実で、七面倒くさい手続きと配慮と「誰それさんのおっしゃる通り」の連発とであった。そうやって相手との距離を狭めつつ、傷つけないように、何時間もかかってようやく5センチ進むような具合の会議体としての日本社会であった。
  社会の統合を期するには二つの道がある。一つは社会や集団の団体的性格を強めるやり方。これは成功した例としては封建制にたどりついて、近代社会へ移行する。日本はこの典型的な例である。他方、統合を特定の機関の上からの統属によって実現するやり方で、このやり方の典型は中国であり、これが専制国家的社会の成立である。
  日本はあくまで団体的社会である。そのため会議の連続、重層する会議によってわずかに進んでいく。今回の経験から、当然、団体的社会を擁護することはするとしても、もうほとほとその結果、忖度と「相場」によって個人の行動が抑制されて鬱屈する団体的社会の喜悲劇を味わった。これでは人は、日本人は、欧米人がさげすむような、自律性のない人間になってしまう。事実、大半の日本人は意気がない。息はあるが。生きているらしいからね。
  中国的専制ともども、これでは人間社会の場として、しまいに徹底的に廃棄してしまいたい、という強い衝動にかられるなというほうが無理だ、と感じた一年だった。でも嬉々として、みなさん会議に出てくる。好きなんだね。会議と会議人間たちを。・・・でもポキは孤独を感じもしない。幸せはポキにある、と決定的に思うから。
  グリゼルダの一枚目第7曲が見事だ。ヴィヴァ君は凡庸さのかけらもない。