panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

感謝のファシズム、おかげさまの専制政治


  冬のスポーツ選手はかわいそうだと思う。一人個人として頂点にたっても、人びとの親切に満遍なく言及して「見知らぬ他人」からなる近代社会日本へまず挨拶する。次いで、身近な、直接助けてくれた人びとに感謝の意を表明する。これも満遍なく抜かりなく。かくして二重三重にというか二十重三十重というか、己を無か最小限にしながら(無私の精神)、ようやくレースを振り返るが、まだ努力が足りない、研鑽を積まなければ、という形で終わる。
  質問に「そうですね」で答えるという定型にも、「と思いますし、〇〇し、〇〇し、、、」という言い切らない形の丁寧語にも違和感があるが、いずれにしても近代日本における個人という問題を考える場合にはある種の困惑と絶望を喚起するという意味でも、勉強になる。
  パシュート韓国のチームワークの俺が俺がぶりこそむしろ人間らしい感じもするのだが。もちろんこれは誇張である。あんな連中とつきあわなければならないなら、あくまですべての人びとに感謝をささげる部族(日本人)のほうが明らかにましだ。そもそも、モスラの卵に祈りの踊りを捧げていた南の島の部族民(映画『モスラ対ゴジラ』参照)が、日本人の原型に近い感じだし。・・・笑えないのだが。
  それにしても、ねえ。