panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

野いちご再見


  「存在論(=哲学)には地理学がない。地理学には存在論がない。・・・人間は地理的存在である」(オギュスタン・ベルク『風土学序説』筑摩書房)。
  というわけで、相変わらず天気が悪い。日本に戻ってからいい天気がない。だから暑くて苦しかった香港のことが忘れられなくなってしまった。ちちちちちちち、ちくましょぼう。
  日本が暑ければ、香港も暑くてまいったぜ、と軽く云って、香港のことは一旦忘れ去るつもりだったのだが。来週は天気はもとに戻るといっているが、秋田の道産子も、札幌にいってる家人3も今週の天気が問題なのだ。
  ベルクは、我輩が大学に入った年に我輩の大学のフランス語講師になって三年間東北のニューヨーク(ふふふ。けっ)にいた学者である。だから我輩とどこかですれ違っているかもしれない。我輩がフランス語を受けたのは日本人で渡辺一夫のお弟子さんだったのだが。ベルクだったらその後の人生も違ったかもしれないが、教養部でなく学部の教師だったら接点の可能性はなかった。結構彼の本が増えた。100年も生きている我輩には分かりやすい議論なのである。
  なぜ思い出したように書いているかというと、ベルイマンスウェーデン映画野いちごを何度目になるか、また見たからである。老医学教授の一日をフロイト式の夢を交えて描いたものである。この北欧の厳しい風土がエゴイストの教授をつくりあげていく一因となっているはずだが、映像はとても穏やかな田舎の風景が描かれる。地理的な存在としての我々としては香港とスウェーデンではまったく異なった人間がつくられるさまを知りたいわけだが、今回はもっと違った印象を受けた。内容を書くほどまとまっていない、のではなく、そんな時間はない。ただの文章なもんで。
  写真が掲載できない。