panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

復調する


  函館、田沢湖、角館、大曲、盛岡、遠野などを少しまわってきただけで、東京では体調が悪化してしまい、昨日は外出する予定があったのに一日伏していた。が、いま夜の8時をすぎて復調してきた。ただし体調は改善したが、体長は同じである。縮んでいるかもしれない。その点は残念である。
  帰京すると生活上のやるべきことが多く、東北的快楽の記憶も薄れていく感じで、やはりこれも残念だが、人の記憶が薄れることは多くは生活上、正機能的に作用しているはずだ。人生の大半は思い出したくないことからなっているからなあ。
  我輩のような凡庸な生活を送る人間であっても、マンションの麻雀仲間からなる自治会首脳陣老人およびその予備軍などと、構内で遭遇したりする。とくに、出会いにおいて頭をどっちが先に下げるかを慎重にみきわめる会長などと会ったりすると最悪である。我輩は頭はすぐ下げるたちなのだが、いい加減、天皇のような姿勢を毎回会長にとらせてしまっていることに忸怩(じくじ)たるものがあるわけで、すぐ忘れたいと思っているのである。でも覚えていたりして、書いたりしているわけで、残念。いずれにしても頭は下げるためにあるのであって、下げた相手の頭をみおろすためにあるわけではない。
  アジアのようにスコールがふる。今日も昨日も。やはり温暖化しているようで、いつまでも暑い。ということはこれを読む日本人なら誰でも知ってることだし、書いて損した感じ。やはり本調子ではないのか。それともただの老化か、あるいは劣化か。同じことかもしれないが。あ、これも老化か、あるいは、、、、。無限後退

  最初の写真は潟分校体育館。まるでシェイクスピアの時代の建物のようである。後の方は遠野の伝承館(?)にあったミズキ。みずきは正月に天井からぶらさげたものだった。我輩の家でもやっていて、家人1も我輩の家でみたといっていたが、そのころはもうあまりやっていなくて、わざわざ家人1用にみずきをひさしぶりにやってみたということだったのではないかと思う。
  田沢湖畔と角館の中間くらいに住むことになった友人がつくづく云っていたが、神棚の飾りつけなどや言葉などは秋田より南部が(北海)道南に近い。大黒様と恵比寿様の御札のような紙?を神棚の前に貼るのだが、真ん中に一枚はさんで合計3枚はるというやり方などは秋田の風習にはないという。道南は南部の影響が強い。あるいは津軽もだろうが。大黒様は山側、恵比寿様は海側に貼るというのだったかもしれないし、左右は決まっていたかもしれない。
  父(ただし実父。養父はいない。いまいないのではなく、もともといない。実父もいまはいない。なくなったのである。ということは父はいまはどこにもいない、という言い方もできるが、かつてはいたのである。そしてそれは実父である。実父である。エレキバンではない)がこの点には厳格で、北海道の厳冬のなかで、居間だって開け放している年末の時期に、これにこだわっているのをみて、我輩は近代主義を志したのである。
  しかしいまや曲屋だの盆踊りだのにこだわるようになってしまった。人生、さきはわからんね。いまでは近代主義なんて言葉をみたり聞いたりするたびに、怖気(おぞけ)を震(ふる)うようになってしまった。はやく近代はどっかへ行ってしまえと思っているのである。

  盛岡のこじゃれた喫茶店六月の鹿は向かいの一階にみえるのだが、蓮の池の前にある。室内からこれをみれば、遠い東北にいるのだなあという旅情がわきたつ。