panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

『東洋的近世』再読


  連休は続いているようだが、ずっと宮崎市定先生のこの名小著が終わらない。滋味豊かで馥郁たる文章の香りに満ちている。馥郁あり、という表現が西原珈琲店のメニューにあったが、馥郁はふくいくたる以外の使い方をみたことはないので、メニューの書き手は相当の日本語の使い手なのか、それとも慣用に対するテロリストなのか。
  名古屋行き前に頼んでおいたシモーネ・ケルメス(ドイツ人)のイタリアバロック集。半分以上がポルポーラなのがすごい。よくブログで紹介するケルメスだが、ジュノーを大半聴いたために今はケルメスに比重がかかっている。
  このカバー写真もそうだが、ケルメはやけにカーニバル的変身写真が多い人である。でも美人ではないし、声もジュノーのような明るさ艶やかさに欠ける。歌う姿は、肩のはだけたドレスだと、相撲取りのカラオケみたいなときもある。しかしバロック後期、前古典派の楽曲は難しい。歌いこなすには相当の力がいるのだろう。だからといって力士には歌えない。必要なのは歌う力である。押したり引いたりの力だの、うっちゃりの技は必要ない。
  ということでウクライナの私立探偵ものを朝みたから、やや時間が押し迫っている。ではでは。