panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

集団主義社会のなかの超個人主義者たち


  ここで簡単に北大名誉教授の山岸俊男社会心理学説を確認しておこう。
  何冊も本があるが、だいたい冗長だし同じことの繰返しが多い人だが、論点は明白だ。
  日本はアメリカなんとか比べても個人主義的傾向が強い。個々の人は。超個人主義とよんでおこう。我輩は。超個人主義者が集まる社会はでは個人主義的社会か?そうではない。典型的な集団主義社会である。なぜそうなるかというと、「帰属の基本的エラー」という現象が生じて、態度から心のあり方を類推するからである。つまり人は日本では一般に集団主義的に行動している。それをみてその人は、あるいは他人は集団主義だと勘違いする(帰属)のである。
  だから日本人は自分は個人主義なのに他人は集団主義だと思い、結局、行動のレベルでは集団主義的振舞いをするというわけである。
  日本的おもてなしも、だから心からの気配りというよりは、集団主義的ルールにしたがっているにすぎず、制度の問題としておもてなしがいわば強制されるにすぎない。心のレベルで日本人が真から真心で(?)で接遇しているとは限らない。
  限らないどころか、むしろ真心なんかを必要しない社会なのだ。我々の暮らす集団主義的社会を山岸は「安心社会」とも呼んでいるが、安心社会では、制度や慣習の水準で人々の行動が決まるので、むしろ心のあり方はまったく別ものでもいいのだ。いいかえると、日本的安心社会は善人をつくらない。真心な?善人はむしろアメリカのような「信頼社会」にこそ存在する。
  日本の場合はやさしく接するのがデフォルト(既定事項)になっているために人はそこを逸脱できないだけである。逸脱すれば評判の制裁を受ける。制裁の恐怖が一方であり、他方では利己的な得したい気持ちがあって、つまりこうした方が人の受けがいいという功利的判断で、結局は利他的と思えるような行動に出るのである。
  だから何か制裁があるとか、評判が傷がつくようなおそれがないときには、旅の恥はかきすてなのである。しかも心のレベルで人を信頼する傾向(メンタリティ)が弱いということは、他人を基本的に恐れの感情でみており、つまり渡る世間は鬼ばかりになるのである。
  こうして原則対等なものが少数集まって検討することになると、この超個人主義者の集まりに結論はないことになる。つねに個人的意志が表明され、妥協がない。一見妥協的な人間こそ、人がよいといわれたいためにそうしているのであって、もっとも手ごわい会議人間なのである。異常。いや以上。
  一転して、別のことかもしれないが、やや関連して、我輩は若人たちの人間観察が浅薄であるということをずっと思ってきたが、ちょっとやさしい態度だといい人だというし、勘違いするし、評価してしまう。あなた方のその基本的エラーが結局あなた方の首をしめる。ちょっと見、やさしそうな人間こそが悪い人間になるということをよーくわかるように。
  ということで。