panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

辛くて見ていられない


  夕食のディレンマ-----つくるのに30分かかって10分で食べてしまう。これをどう解決するか。
  解答-----つくるのを10分に短縮する。10分かけて10分で食べ尽くす。
  今夜その実験を行う。10分で豚肉のキャベツ炒めと餃子をつくり、さらに北海道自宅庭産のアスパラガス2本の茹でたものをつけあわせにし、さらに茄子その他の漬け物。味噌汁は昨日、海老の味噌汁をつくって濃厚にして食べたので、今日はパス。
  というわけで、10分ほどでつくり10分で食し、途中風呂にお湯を入れていたので、すぐ入って、いまにいたる。
  この10分対10分は疲れているときには最適だと思う。
  それで、10時から録画しているNHKのプロフェショナル!仕事の流儀を何となく見てしまうと、今日は単身赴任してミャンマーごときで水道をつくっている技師のはなし。まさに昨日触れたようなはなしだ。フェルメールより、ティントレットより上だと書いたばかり。
  でも、正直なはなし、ミャンマーは好きなのだが、結局、そういうところの人は人の善意をすぐ忘れると思う。いつまでも記憶して感謝の気持ちを失わない、というのはああいうところの人の習性ではないような気がする。
  同じ日本人が一人、あたかも我輩と同じように夕食の大ぶりのキュウリを切って、かければかけるど美味しいといいながら鰹節をかける姿をみると、はっきりいって、悲しくなる。切なくなり、瞬時にテレビを切ってしまった。だから後で見直さないとよくはわからないのだが、善意が半分以上の日本人の技術援助を現地の人間がきちんと理解して感謝してほしいと思う。
  というと、まるで現地の人々を激しく罵倒というわけではないが、軽んじているようにみえるだろうが、そういうことではない。そういうことでもあるかもしれないが、そうではないといっておこう。
  我輩が今日ずっとしゃべくっていたように、こういうことにもきちんと感謝の心を忘れないで、後々まで覚えておき、たまに思いだしてその善意に深く頭をたれるというのは、また、そういう人間がつくられるというのは、封建制を経験した地域の人間だけなのではないだろうか。
  まず記憶ということ自体が一つの能力である。人の善意を善意として捉える正直で気高い能力もまた万人に与えられた能力ではない。それは一つの文化であって、その文化は決して普遍的なものではない。少なくとも中国人庶民にはない文化だし能力だと思う。満洲で教えていた善意の教師たちを中国人は裏では落伍者のように見ていたというからね。善意の通じない人間というのはむしろ多いのである。・・・思えば、我輩は中国人が嫌いなのだろうか。何一つ中国の人のいいところが浮かばない。まずぐね゛?嫌いというより軽蔑してるんだろうか。ってもっとまずぐね゛?
  ということを考える夜。ハイドンのピアノトリオを一枚目から聴きながら。ボザールトリオの古典的演奏。・・・写真はその善意の技師である。くじけず頑張っていただきたい。現地に間違っても骨を埋めないようにと祈る。