panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

贅沢といえば贅沢、果たして、しかし、、、


  朝から本を読んでいるが、朝飯抜きだと昼食後はとたんに能率が落ちる。睡魔がおそって、すいませんという林家一門的状態が生まれるわけである。
  それにもめげず、ひたすら読んでいるのだが、果たしてこの本が、我輩の仕事に直接かかわるのかどうかは微妙なところである。ということで、贅沢な時間の使い方をしているわけだが、我輩が怠けていたところで天下国家の大勢に影響はないわけで、どうでもいいのだというバカボンのパパ的気分でもある。
  「いうまでもなく、日本社会の悪い癖として、南方と関係をもつ人間は三流であり、四流であるという通念があった。・・・とにかく、南方と関わった日本人には、『無告の民』のカテゴリーに入れるにはもったいない、さりとて一流会社のサラリーマン社員でもない、特別な人種がいたことは事実である」(千倉書房版の合本の方、88頁)。
  白人支配下の戦前の東南アジアで活躍した商人や実業家たちの利益率は低かった。よく繁盛した売薬にしても行商に毛の生えたものから出発し、そしてやはり多国籍企業になるようなことはなかった。欧米の製薬会社の支配のもとで、馬来(マレー)人相手の細々としたものが多かったようである。だからそうした欧米帝国主義勢力を一掃すれば、帝国日本の経済的進出は莫大な富を可能にするはずでもあった。
  もともとは現地に先行する娘子軍を中心に徐々に小さな交易体制が形成されていくわけだが、福沢諭吉はそれを、国辱とする一派に対して国益を利するものとして評価するという(娘子軍はからゆきさんのこと)。さすがに大福沢ではないか。
  ということで、矢野暢大先生の文章は見事である。一般書だということを差し引いても。
  さてまた矢野先生。晩年の不遇、自己責任の上での、ということがいわれるわけで、ウィーンみたいなどうしようもないところで客死するという事情も、不遇さを倍加させるが、果たして彼は非業の死だったのだろうか。
  運動選手の究極がオリンピックで金メダルととることだとしたら、学者のオリンピック、ノーベル賞選考の日本代表みたいな役割を果たし日本の学問界の中心にいたころから矢野先生はその中心にどこかそぐわない感じがある人だった。天草の向かいの田舎者だったからだろうか。引揚者の一家だったからだろうか。ともあれ何か焦燥感があって、それが激しくときには権威主義となり、ときには下品にすら映ったが、結局、この本などに随所にみえる無告の民への共感などを知ると、やはりウィーンで客死するという後年の放浪のパターンは彼の本来の、しかしまあ世間的には失敗かもしれないところの、自分らしい人生のあり方を取り戻したということではなかったのだろうか。きわめて不名誉な形ではあったが。
  非業の死とは志を遂げることのできなかった死である。であるならば、彼の死はむしろ、もともとの(学者的)居場所に居心地の悪さを感じていたのが、本来の自己にもどってそれを赤裸々に生きることになった死であって、非業の死とは呼ぶべきものではないのではなかろうか。彼の一生をそういう風にとらえることも可能ではないか。何となくそう思うようになった。