panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

別亜としての日本


  すがすがしくて泣けそうな朝である。湿度が人間の体温にぴったり添うような日は、日本ではそう数多いわけではない。常春の国ではないのであるから。パタリロになりたい!気持ちがいいので、ブログを続けよう。
  さて昨日、カンボジアで読み残していた古田博司の『新しい神の国』(ちくま新書)を思いだして、終了させた。朝鮮関係では有名な先生。いくつか(大変)面白い指摘をしている。そのうちの一つが別亜。アナザー・エイジア。
  脱亜は福沢諭吉の提唱だが、要するに、中国ととくに朝鮮の惨状にあきれて亜細亜から脱却しようという主張だが、そもそもはじめから(アプリオリという言葉を使っているが)日本は亜細亜ではなかった。亜細亜の一部であるとはいえ、東アジアの文明圏とは異なる文明を当初から維持していたというのがこの別亜の云わんとするところ。・・・なるほど。
  やはり概念というか新しい言葉をつくると、主張がスムーズに理解されるようになるという一例である。同感同感。生態史観その他も同じようなことを云っているが、一語で表現できるこの新造語までは思いつかなった。結構結構。
  アジア女性基金に尽力した3人の東大教授がいる。大沼保昭国際法)、横田洋三(国際法)、和田春樹(共産主義体制の政治学)。和田先生は北朝鮮の拉致はなかったということを実証(!)して恥をかいた。ソ連政治なんかでは学生時代読まされた人なんであるが。いまだに立派な先生だという(左翼の)先生がいるくらいなのだが。それはそれとして、大沼保昭が韓国人に愛想をつかしたと大声でかどうかは別にして、云っている。昨夜それを発見したのだが、いまはどこで見たのか思いだせない。いずれにしても完全に韓国に利用されたアジア女性基金の経緯とともに、今頃わかったのかと、心から同情したい。レトリックにすぎないが。同情より憐憫の情。
  さて我輩は東アジアではなく、東南アジアをずっと研修先に選んできたが、一つの理由は、東アジアについては理解したつもりだからである。古田先生のまとめでは、東アジア中華文化圏の特徴は、儒教(宗教)、宗族社会(社会構造)、中華思想(世界観)である。日本はこのいずれも共有していない。というかこれらの反対である。日本文化の特徴は、写実と茶化しとしてこの新書ではクローズアップされており、とくに茶化すをteazationと造語している。文字どおり茶と化すである。
  日本の進歩的文化人はこの江戸町人文化的な匂いのする茶化しが嫌いだったが、これは決して単なるアホではできない。これが成立するためには物事を日本的なリアリズムでとらえ(写実)、そしてこれを軽くいなすことのできる社会的余裕が必要である。茶化しがあったからこそ、ゴリゴリの朝鮮のような儒教社会化が阻止されたわけである。何といっても李氏朝鮮には庶民的な商店だの娯楽だのは一切なかったのだからなあ。その点を韓流テレビで勘違いしては困る。厳密な意味で儒教が現実化したのは朝鮮のみである。中国すら適当にはぐらかしたし、日本の庶民が儒教に影響されるのは、葬式や式典のやり方くらいではないか。位牌なんかも仏教ではなく、儒教である。毎日ご飯をお供えする我が母をみると、儒教太りという言葉すら浮かぶ。供えたご飯は誰が実際に食べるかというと、、、。
  ともあれ東アジアはそういう次第でつきあえば腹立たしく、人間的にもどの基準でみても劣ったようなタイプの人々を多数輩出するシステム(文明圏)なのであることは明白である。だから行っても、いまさら学ぶところはない。
  その点、課題としては東南アジアはもっと複雑だし理解しがたい。難題なのである。簡単に後進と決めつけてあっさり片づけるには魅力的すぎるわけで。だんだんわかってはきたが、依然、難題の核心は謎である。・・・そもそも謎なのかという根本的な問題も含めて、東南アジア的なもの(?)には一定の探求の余地がある。当然だが、東アジアには全然ない。ほぼ理解されている。ただ心情的に日本人にはその理解を受け入れることが困難というだけである。人間の屑みたいなことが平然と成立するのだし。たとえば井戸に落ちる子供をとっさに助けること(惻隠の情)は、中華の厳密な思想では、決して立派だというわけではないようなのである。・・・不思議な連中なのである。