panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

高野対談本を読む


  暇をみて新刊の高野先生の対談をみているが、驚いたことに高野先生、最初から(つまり早稲田の学生時代から)ライターで生きていくと決意していたようなのである。屈折した青春時代もそういう目的とのかねあいから来ていたのである。もっとのんべんだらりんと生きているようにみえたのだが。
  だから『アヘン王国潜入記』などは、いあきたりばったりの個人的関心から遂行された辺境旅なのではなくて、ライターとしてやっていけるかどうかの瀬戸際でなされた決死行だったわけだ。物語が、それにしてはユーモアたっぷりで、笑えるのだが、そこが天性の作家力なのかもしれない。潜入記に悲壮感はあるが、彼のいう間違う力の発揮としてオブラートにつつんで提供するところが凡百の探検ものとは違う。
  それにしてもちょっと驚いた。そういうつもりはないと思っていたのだが。そういうことがわかってみると、我輩が東南アジアで半年少しは彼に近づこうとして近づけなかったことは、当然といえば当然であった。ライターになるつもりはないし、そもそも人生がかかっていたわけではない。
  やはり一見笑えるような話の背景には、けっして本人が笑ってごまかすような安直な態度はないということであるね。うん。教訓教訓。・・・我輩は教訓のカタマリだから、これを読んでる君、君が教訓とするように。・・・東南アジアといえば、支配されないためのアート。東南アジアものの権威、スコットの作品。藤原帰一の先生だったのか。イエールの。東南アジアの軟性国家(ミュルダール)をアナキズムという観点から再評価することは十分可能なのである。高野的東南アジアの魅力はそこにあるような気がするのだが。