panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

9時間遅れのメール表示

  メールの受信が約9時間遅れの時刻で表示されるようになった。理由はあれだと思うが、修復できない。時間についてはとくになんとも思っていなかったが、こうなってみると不便だ。
  それにしても写真の掲載ができないと、楽だが、張り合いがなくなる。10月からはまた復活できるのだが、まだ10日もある。やる気を失ってしまうかもしれない。いいか。
  家族的団欒というのを前に考えたのでマレー人の家族調査をした古い研究を読んでみる。いやあこんなに詳細にやるのか、地域研究は。その後の著者の大作りな議論しか知らなかったから、驚いたが、要は核家族的家族というのは普遍的ではなく(人類学者も普遍的だと考えていた)、核家族的な世帯をこえた紐帯がありうる。マレー人の場合に即してそれを「家族圏」と名付けている。家族圏ではメンバーシップが明確でなく、一人の人間がいろいろな家族圏に属しうる。妻なら新しくつくった家族圏、生まれたところの家族圏(実家)、夫の家族圏というふうに。ま、親類や親族のことじゃね?日本だと。
  日本は集団性の強い団体としての家族の代表格なので、それを相対化するという意図があるものと思われる(坪内良博他『核家族再考』弘文堂、1977年)。しかしこのマレー的ルーズさ(といってはいけないのか)は、一対一で対人関係や物事を考える東南おおアジアの特色の家族版だともいえるだろう。集団的構築性がサルからヒトへの決定的出発点であったことを考えると、やはりどこかに人間的集団化能力の程度の低さを思わせるものがあり、東南おおアジアが東南おおアジアである所以の一つの説明にもなるかと思う。21世紀初頭の感想としては。
  差別とか偏見に近い見方かもしれないが、信頼という社会関係の弱さはそういうところに起因しているはずではないか。それに、、、閉鎖空間での家族的親密さを経験しないで成長する人間が立派に育つということはない、ということが、社会主義の経験やキブツイスラエル)での経験から明らかなのではないか。と、個人的には思うので(仕事の上に反映するつもりはないが)、核家族を優位に置くものの見方は一概には軽んずることができないと感じるのである。どうであろうか。